~西へ~(291) 47日目⑩ 壱岐神社/壱岐護国神社Ⅱ(少弐資時公の墓) | どちて坊やが隠居をしたら~日本国でも毎日が徒然~

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少弐資時公の幟が立つ壱岐神社の境内(周辺)を散策してみました。


  弘安の役瀬戸浦古戦場  
  長崎県指定史跡  昭和50年1月7日指定
 所在地:長崎県壱岐市芦辺町箱崎大左右触(瀬戸浦一帯)
 弘安4(1281)年の、2回目の元寇の時、対馬・壱岐を侵して6月初旬に博多湾に来襲した元軍(東路軍)は、鎌倉幕府の守備軍との間で激戦を展開し、一時は水城(みずき、現福岡県太宰府市)にまで迫る勢いであった。しかし東路軍は幕府の予想以上の反撃に遭い、江南軍の到着が遅れたこともあってか、6月中旬になって肥前鷹島まで退いた。
 当時の壱岐島は元軍の博多攻略の根拠地となっていた。そのため鎮西奉行・少弐経資(しょうにつねすけ)は自ら陣頭に立ち、博多方面の警護をしていた薩摩・筑前・肥前・肥後の御家人達を率いて壱岐の瀬戸浦に攻めよせ、6月29日から7月2日にかけて元軍と激突することとなった。戦闘は主に港の内外を中心とする海上はもちろんのこと、瀬戸浦の両岸やその周辺の陸地でも激しく繰り広げられたという。
 瀬戸浦は2キロメートルに及ぶ狭隘な入り江を有し、西側には少弐氏の居館船匿城(ふなかくしじょう)があり、水軍の基地としては絶好の条件を備えていた。また壱岐から博多までの最短の地に当たることから元軍も拠点としていたものと考えられる。
 当時の壱岐の守護としては、今日わずかに文永10(1273)年11月16日の記録(「松浦文書」)にみられる武藤(のちの少弐)資能(すけよし)が確認できるだけである。
 瀬戸浦一帯が少弐氏の私領であったことから、その攻防戦は激しいものがあったと想像される。(この戦いについては「龍造寺文書」弘安5年9月9日肥前守護北条時定書状に、「去年異賊来襲時、七月二日、於壱岐島瀬戸浦令合戦由事、申状并證人起請文令披見畢」(去年(弘安4・1281年)、元寇が来襲した時、7月2日に壱岐の瀬戸浦で合戦に及んだという事、貴方からの上申書(恩賞を願い出た文書)並びに天地神明に誓った起請文で拝見した。)と記されている。) -案内板より



  碇石(いかりいし)  
 発見地:壱岐市芦辺町八幡左京鼻沖合
 材質 :花崗岩
 全長 :242㎝
 重量 :約300㎏
中央部が太く先端に向かって先細りとなる本体の前面は楕円形をなしている。碇石は木製の碇軸木に網をもって固縛するための網掛け溝が設けてあり、中世日本船の絵に描かれている碇と一致している。中国泉州発掘の碇石や長崎県鷹島南岸の海中から引き揚げた十三世紀の中国船の碇石とは明らかに型式を異にしている点は重要であり、このことから左京鼻沖合から発見された本碇石が中世日本におけるやや大型の外洋船に使用されたものと推定される。1281年、第二次日本遠征に踏み切ろうとしている元帝国に対して、執権北条時宗の指導により、九州沿岸には石築地(防塁)を築き、対馬、壱岐には守備兵を配置して防衛体制を整えた。壱岐には鎮西奉行少弐経資が我が子少弐資時を守護代に任命して防衛に当たらせた。この時に兵員、武器、軍馬、兵糧等の輸送に九州としては大型の船舶を当てた。弘安四年五月二十六日、壱岐瀬戸浦に侵攻した元の東路軍と大激戦の末、少弐資時以下全員玉砕したことは歴史の示すところである。玉砕数カ月前に守備兵等の輸送に当たった数隻の大型船は主なきままに瀬戸浦に沈んだものと思われる。材質が外国産の花崗岩を使用しているが、この時代、博多の港には石材まで輸入していた事実から、その石材を日本船に使用したものと考えられる。本碇石が単なる日本船のものと考えるより歴史に照らして弘安の役に殉じた日本将兵と深い関係があったものと考えるべきであろう。 -案内板より


  煙台 (のろし、すすみ)  
 天智天皇二年(六六三)唐・新羅の連合軍による白村江の敗戦後、壱岐は朝鮮半島への兵站基地の性格は弱まり、国防第一線の要地となりました。
 日本書紀には天智三年に「対馬、壱岐、筑紫国に防人と烽を置く」とありますが、この地瀬戸にも防人がおり烽塔があったのです。
烽場には石を四面に積み上げた烽台と石を「コ」字型に並べた烽台とがありますが、前者は比較的平坦な地形に設けられたようです。石を並べたのは馬渡島に造っています。
 延喜式という古い本に烽のことを次のように定めてあります。
 火炬(たいまつ)の相互の間隔は25歩(約四五m)とし、烽を置く場所は四〇里(二二㎞)の間隔にするようにと定めてあります。烽は、昼は煙を一刻(30分)あげ火は一本、火束が燃えきるまで燃やすこと(夜間)。
 はっきり使の船とわかれば火を一ヶ所あげること。賊船とわかれば二火を 賊船二百隻以上は三火あげよと定めてあります。火炬は渇いた草(正字)を芯として松脂のついたタイマツを挟んでおくこと。
 煙を立てる用意は、蓮、萱、藁と生柴を一緒に燃やすようにきめてあります。壱岐島の烽を馬渡島で受け、呼子、大宰府へと伝えるしくみでした。
 馬渡島(八の尾辻)に玄武岩の大きな塊石を一辺四米の「コ」字型に配置した烽台が遺ってますが、ここにあるのはそれの復元です。江戸時代まで使用されていたもので、豊太閤の烽台を踏襲したものと思われますが、現地の地形が延喜式に定める条件と合致しているので古代の烽台を後年整備して使用を続けたものと思われます。 -案内板より




更に進むと、

      

ここに築かれている積石塚は、少弐経資の三男、資時(すけとき)の墳墓であるとされる。資時は当時十九歳で一群の将として勇敢に戦い、ついに倒れた。資時は壱岐守護代であったとも伝えられるが詳細については確認できていない。 -案内板より
 *案内板には「少弐経資の三男」とあるが「長男」の間違えでは。


 贈従四位少弐資時公之墓

少弐資時(しょうにすけとき) 少弐経資の長男 
生没年:弘長三年(1263年) - 弘安四年六月二十九日(1281年7月16日) 
没歳:19歳
少弐氏は、武藤頼平の子、資頼を祖とする。
文永十一年(1274年)の一度目の元寇(元・高麗軍の侵略/文永の役)で、
叔父・少弐景資に従って12歳で初陣を果たし、博多湾岸に上陸してきた
蒙古軍(元とその属国高麗軍)に向かい、一番に名乗りかけて矢合わせを
したことで、その名が知られ「文永の役」で平景隆が討ち死にしたことに
より欠員となっていた壱岐守護代の後任(鎮西奉行)となり、船匿城に居城。
二度目の元寇にて、資時公らは、わずかな軍勢でこれらを迎え、激闘の末、
船匿城で全滅したと伝えられています。(上記案内板の内容とは少し違ってます。)

昭和五十六年、船匿城址を発掘調査した際、夥しい数の人骨が埋葬された
状態で発見されました。このことから「船匿城」にて大規模な戦闘があった
事が裏付けられた。
船匿城石碑の横には供養のため、将軍地蔵堂が建立されています。

      
     少弐資時公記念碑


 少弐公園から見る竜神崎


     (小さい画像はクリックで拡大)




                                 つづく







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