東京都太田区に鎮座します「太田神社」から一気に、
横浜市保土ケ谷区に鎮座します「神明社」にきました。


神明社は、平安時代中頃(970年)の創建と伝えられ、横浜市内では最も
由緒の深い神社の一つとされています。鎌倉時代の始め、神様のお告げが
あって現在の地に遷った時、伊勢神宮になぞらえて、天照大御神をまつる
御本社のほか、豊受大神宮や境内神社がまつられました。


街中とは思えないほど静かで、とても綺麗に整備された境内の
真っ直ぐな参道を進みます。

神明社御由緒 (旧伊勢神宮領榛谷御廚総鎮守)
今から一千年以上昔、保土ヶ谷の地が榛谷(はんがや)と呼ばれていた平安時代の中頃、天禄(てんろく)元年(970)当社の御祭神・伊勢の天照大御神が、武州御厨(みくりや)の庄の内、榛谷の峯に影向(ようごう)し、それから川井、二俣川、下保土ヶ谷の宮林へと三遷の後、嘉禄(かろく)元年(1225)神託があって、神明の下宮を造り、当地を神戸(ごうど)と号し、神宮寺を満福寺と名付け、経蔵堂を神照寺と称したという。これにより榛谷御厨八郷の総鎮守として広大な社領を免ぜられ、宮司以下数10人の禰宜(ねぎ)・社人(しゃにん)・供僧(ぐそう)・巫女が仕え、年に75度の祭祀(さいし)を営み隆盛を極めたという。
その後、戦乱の時代に一時衰退したが、天正18年(1590)徳川氏入国の時、社殿の造営が行われ、4石1斗の御朱印地(ごしゅいんち)が安堵(あんど)された。また元和5年(1619)宮居(みやい)を神戸山々頂から現在の場所に遷し、社殿の造営や境内の整備が行われた。
明治2年の修営には、明治天皇御東行の時、本陣苅部清兵衛宅に臨時に建てられた鳳輦(ほうれん)安置所の御用材を下賜された。明治6年村社に列せられ、神饌幣帛料(しんせんへいはくりょう)供進(ぐしん)の神社に指定された。
平成10年、鎮座1030年祭・当地遷座770年祭・伊勢神宮鎮座2000年祭を記念して「平成の大造営」が行われ、380年ぶりに本社・摂末社・神楽殿等総ての境内建物12棟が一新された。平成12年、神奈川県神社庁献幣使(けんぺいし)参向(さんこう)神社に指定された。 -案内板より

御祭神
本社:天照太神宮(てんしょうだいじんぐう)
・・天照大御神(あまてらすおおみかみ)
摂社:豊受大神宮( とようけだいじんぐう)
・・豊受大御神( とようけおおみかみ )
当社では、本社を「天照太神宮」、摂社を「豊受大神宮」と表記します。
-公式Webより

拝殿(本社:天照太神宮)

拝殿ない(本社:天照太神宮)

本殿(本社:天照太神宮)


拝殿(摂社:豊受大神宮) 本殿(摂社:豊受大神宮)
つづく
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