明治34年(1901年)4月29日は、
「昭和天皇」御生誕あそばされた日でございます。

嘉仁親王(後に践祚して大正天皇)の第一皇子として御生誕あそばされました。

沼津御用邸にて御幼少期を御過しあそばされ、明治41年4月より学習院初等科に
御入学、学習院院長・乃木希典(陸軍大将)の教育をお受けになります。

迪宮様(裕仁親王)は、明治45年(1912年)7月30日、
親王宣下をお受けになり、皇太子となられます。

大正10年(1921年)には、
日本国皇太子殿下として初めて、欧州を御行啓有らせられ、
各国の王室との交友を深められました。

親王の御訪問先は英国(イギリス)と仏国(フランス)の2カ国のみとする予定で
あったにも関わらず、各国王室から訪問の要請が相次ぎ、当時の宮内大臣
牧野伸顕らは、警備上の問題等をあげ、断るが、なおも訪問の要請があり、
白国(ベルギー)などは、最初の訪問国英国での王家主催の歓迎会にて、
駐英白国大使が、
裕仁親王に白国訪問を直接要請することもあったと伝わります。

その結果、英国(イギリス)、蘇格国(スコットランド)、仏国(フランス)、
白国(ベルギー)、蘭国(オランダ)、伊国(イタリア)を御行啓有らせられました。

大正12年、9月1日には関東大震災が発生し、4日後の15日には、畏くも御自ら
騎乗にて、ご視察あそばされ、その惨劇を見るや、
久邇宮邦彦王の第一王女・良子女王とのご成婚の期日を延期あそばされました。

大正15年(1926年)12月25日に、
大正天皇が崩御あらせられると、
裕仁親王は、葉山御用邸にて践祚あらせられ、
第124代天皇となられ、元号を「昭和」と改元賜りました。

7人の皇子女を儲けあそばされた
昭和天皇でございますが、昭和3年に 久宮祐子内親王が、薨去あそばされます。
後(昭和55年)の那須御用邸での記者会見にて
昭和天皇は
「皇居に移ってからも子供と一緒に暮らしました。そのひとつの例として、
久宮が危篤の折り、私がちょうど風邪をひいて熱を出していました。
私は病を押して久宮を見舞ったことが出来たということがあります。
こういうことができたということは、屋根の下で一緒に暮らしたからだと
私は思います」と、お述べられました。

昭和天皇のお人柄を伺い知る事の出来る出来事が残っております。

「島を照らし出したサーチライト」
 二つ目は、昭和天皇が27歳で即位された後の昭和6年11月、
九州の鹿児島から軍艦に乗って帰京されるときのお話です。
陛下が夜になって暗くなった海に向かって、一人挙手の礼をされているのを、
お付きの者が見つけました。
 
 不思議に思い、海のほうを見ると、遠く暗い薩摩半島の海岸に、
天皇の軍艦をお見送りするために住民たちが焚いたとみられる
かがり火の列が見えました。何と、陛下はそれに向けて答礼をされていたのでした。
お付きの者は、陛下のそのお姿に深く感銘し、さっそく、
軍艦からサーチライトが点灯され、海岸を照らし出しました。
(『新しい歴史教科書』より)


その後、明治期から続く陸海軍の予算争い、対日経済封鎖、
新聞による強硬論や世論誘導、ハルノート(ソ連国スパイ作案)、
日本国内のソ連国スパイによる工作「対米開戦やむなし」論などにより、
対米開戦へと進んでいく事となりました。

 

敗戦の翌年に御詠みあそばされました
昭和天皇御製です。

「ふりつもるみ雪にたへて色かへぬ松ぞ雄々しき人もかくあれ」
                        一 九 四 六 年 歌 会 始
                        お題「松上雪」