本日は、大日本帝國陸軍 大田 実 大将の命日であります。
大正7年のシベリア出兵の際は、参謀としてウラジオストクに赴任、
昭和3年の支那事変では、歩兵第36旅団を率いて、華北の戦線に
「日本に牛島旅団あり」との勇名をとどろかせる程の快進撃、突撃振りを
みせた大田 実 大将(少将/当時)でありますが、教育畑の軍歴と言っても
過言ではありません。
大正9年から陸軍歩兵学校教官、
大正14年には第一鹿児島中学校に兵第45連隊附の配属将校として配属、
南京攻略戦、武漢作戦の後には、陸軍予科士官学校幹事に任命、
昭和14年3月には、陸軍予科士官学校校長兼陸軍戸山学校校長に就任、
昭和16年10月、陸軍公主嶺学校校長、
翌17年に陸軍士官学校校長に就任しました。
この当時、真珠湾攻撃の成功、シンガポール陥落などで、軍民共に戦勝気分に
酔っていた時期でありますが、牛島大将(中将/当時)は陸士の教官に対し、
士官候補生や教官の間にも驕りや楽観的空気が蔓延していると指摘して、
注意を与えております。
先行きを冷静に分析、客観的に判断の出来る将であったことがうかがえます。
昭和19年9月に第32軍司令官に親補され、沖縄に赴任した
牛島陸軍大将(中将/当時)でございますが、すぐに着手したのは、
住民を戦禍に巻き込まない方法を県知事と協議をいたしました。
そして、60歳以上、国民学校以下の児童並びにこれを世話する女性を
北部に疎開させるよう指示を出します。
牛島司令官閣下は、「軍民一体となった玉砕を防ごうとした」のです。
昭和20年3月26日に始まった沖縄戦でありますが、
4月1日には米軍による本島上陸が開始されました。
この日の上陸作戦だけで、米海軍からの艦砲及び迫撃砲の砲弾数は、
10万発を超えると米国の資料では残ってます。
最後の命令が「生きて虜囚の辱めを受くることなく、悠久の大義に生くべし」と
降伏を否定すると捉えられるものだったことから、戦後の沖縄県民の間には、
牛島司令官に対し、今も厳しい見方があると一部の活動家等が頻りに喧伝しているが、
実際はどうなのでしょう。
奥田 鑛一郎元陸軍少佐のお言葉です。
(首里撤退の誤りを指摘した上で)「生き残った第32軍の将兵はもちろん、沖縄県民の
牛島司令官個人への感情は、敬愛の気持ちこそあれ、反感や怨磋の声は聞かれなかった」
昭和20年6月23日、摩文仁洞窟に置かれた司令部壕で割腹自決された
牛島 満 大将、辞世の句であります
矢弾尽き 天地染めて 散るとても 魂還り 魂還りつつ 皇国護らん
秋待たで 枯れ行く島の 青草は 皇国の春に 甦らなむ
全ての兵者に敬意を表しますと共に、英霊の御霊に感謝の誠を捧げます。