本日は、大日本帝國海軍 大田 実 中将の命日であります。
昭和20年3月26日に始まった沖縄戦にて、帝國海軍の最先任者として、
約1万人の陸戦部隊を率いて戦闘を指揮し、昭和20年6月13日、豊見城の
海軍壕内で自決いたしました。
自決の前に海軍次官宛てに発信した訣別電報には、沖縄県民の敢闘の様子が
伝えられており、「県民ニ対シ後世特別ノ御高配ヲ賜ランコトヲ(県民に対し、
後程、特別のご配慮を頂きたくお願いする)」との言葉で〆られております。
海軍次官宛の電報(訣別電報現代語訳)
沖縄県民の実情に関して、権限上は県知事が報告すべき事項であるが、県はすでに通信手段を失っており、第32軍司令部もまたそのような余裕はないと思われる。県知事から海軍司令部宛に依頼があったわけではないが、現状をこのまま見過ごすことはとてもできないので、知事に代わって緊急にお知らせ申し上げる。
沖縄本島に敵が攻撃を開始して以降、陸海軍は防衛戦に専念し、県民のことに関してはほとんど顧みることができなかった。にも関わらず、私が知る限り、県民は青年・壮年が全員残らず防衛召集に進んで応募した。残された老人・子供・女は頼る者がなくなったため自分達だけで、しかも相次ぐ敵の砲爆撃に家屋と財産を全て焼かれてしまってただ着の身着のままで、軍の作戦の邪魔にならないような場所の狭い防空壕に避難し、辛うじて砲爆撃を避けつつも風雨に曝さらされながら窮乏した生活に甘んじ続けている。
しかも若い女性は率先して軍に身を捧げ、看護婦や炊事婦はもちろん、砲弾運び、挺身斬り込み隊にすら申し出る者までいる。
どうせ敵が来たら、老人子供は殺されるだろうし、女は敵の領土に連れ去られて毒牙にかけられるのだろうからと、生きながらに離別を決意し、娘を軍営の門のところに捨てる親もある。
看護婦に至っては、軍の移動の際に衛生兵が置き去りにした頼れる者のない重傷者の看護を続けている。その様子は非常に真面目で、とても一時の感情に駆られただけとは思えない。
さらに、軍の作戦が大きく変わると、その夜の内に遥かに遠く離れた地域へ移転することを命じられ、輸送手段を持たない人達は文句も言わず雨の中を歩いて移動している。
つまるところ、陸海軍の部隊が沖縄に進駐して以来、終始一貫して勤労奉仕や物資節約を強要されたにもかかわらず、(一部に悪評が無いわけではないが、)ただひたすら日本人としてのご奉公の念を胸に抱きつつ、遂に‥‥(判読不能)与えることがないまま、沖縄島はこの戦闘の結末と運命を共にして草木の一本も残らないほどの焦土と化そうとしている。
食糧はもう6月一杯しかもたない状況であるという。
沖縄県民はこのように戦い抜いた。
県民に対し、後程、特別のご配慮を頂きたくお願いする。
この沖縄戦の前年、サイパン陥落後、戦火が沖縄に及ぶことを憂慮した政府は、
沖縄および宮古島など五島から60歳以上と15歳未満の学童を台湾へ2万人、
本土に8万人を疎開させる決定をし、米軍により海上交通が遮断される翌年3月頃
までに延べ187隻、児童5千余名を含む約8万名を疎開させた事、
「菊水一号作戦」により、沖縄に向かった戦艦大和以下の第2艦隊第1遊撃部隊に
貨車十数両分の一般物資や歯ブラシ、婦人用化粧品等を多量に搭載して出撃した
事も大田中将の訣別電報とともに忘れてはいけない事ではないだろうか。
大田 実 中将、辞世の句であります
大君の御はたのもとにししてこそ 人と生まれし甲斐でありけり
全ての兵者に敬意を表しますと共に、英霊の御霊に感謝の誠を捧げます。