真っ当な国になる為に少しずつでも、憲法改正前に出来る事は、
やっていかなくてはならない。
この集団的自衛権もその一つではあるが、そもそも、現在の自衛隊法では、
集団的自衛権はおろか、個別の自衛権も行使できない、正確には、行使す
るには、大変な時間がかかるという事を国民は知っているのであろうか。
やはり、解釈などという嘘で誤魔化すのは止め、
憲法を改正しなければならない。
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「個別」「集団」の区別は世界の非常識 集団的自衛権の基礎知識
~高橋洋一 (嘉悦大学教授)の俗論を撃つ!~
安倍晋三総理は、15日に有識者懇談会(安保法制懇)から提出される報告書を踏まえて、政府としての検討の進め方の基本的方向性を示す。本稿執筆時において、まだ確認できていないが、各種情報から、集団的自衛権を考えるための基礎知識を提供したい。
総理のこうした動きに対して、護憲派のマスコミは、反発している。朝日新聞は、14日「安保掲げ憲法逸脱?法制懇の報告、全文入手」と報道し、「他国を守るために武力を使う集団的自衛権の行使は憲法9条の定める「必要最小限度」の自衛権の範囲内だとして、憲法解釈の変更を求めるなど、憲法の根幹を揺るがす内容」としている。
3日付け社説でも「日本近海での米艦防護を例に挙げ、「個別的自衛権で対応できる」「ことさら集団的自衛権という憲法の問題にしなくても、解決できるということだ。日本の個別的自衛権を認めたに過ぎない砂川判決を、ねじ曲げて援用する必要もない」と書かれている。
しかし、「個別的」、「集団的」と分け「個別的」はいいが、「集団的」はダメというロジックは国際社会で笑いものだ。国際常識としては、海外において自衛権が、どこの国でも刑法にある「正当防衛」とのアナロジーで語られているのだ。
=正当防衛には他人の救済も含む=
まず、日本の刑法第36条第1項を見ておこう。
「急迫不正の侵害に対して、自己又は他人の権利を防衛するため、やむを得ずにした行為は、罰しない」
ここでのポイントは、「他人の権利を防衛するため」が含まれていることだ。自分を取り巻く近しい友人や知人、同僚が「急迫不正の侵害」にあっていたら、できるかぎり助けてあげよう、と思うのが人間である。そうでない人は「非常識な人」と見なされ、世間から疎まれるだけである。少なくとも建前としてはそうだ。もちろん、実際の場合には、「他人」と「自己」との関係、本人がどこまでできるかどうか、などで助けられる場合も、助けられない場合もあるが。
国際社会の論理も、これとほとんど同じだ。「自己」や「他人」を「自国」「他国」と言い換えれば、つまるところ国際社会では「急迫不正の侵害に対して、自国又は他国の権利を防衛するため、やむを得ずにした行為は、罰しない」。そのまま自衛の解釈として成立することがわかるだろう。ちなみに、英語でいえば、自衛も正当防衛もまったく同じ言葉(self-defense)である。
正当防衛をめぐる条文は、万国問わず「自己および他人」への適用が原則で、「自己および他人」はセットである。したがって自衛権の定義において「個別的か集団的か」という問いが国際的に通じない。
=私は自分の身しか守らないということに=
冒頭の社説のような「個別的自衛権で対応できる」というのは、他国が攻撃されても、自国が攻撃されたとみなして個別的自衛権で対応できるので、集団的自衛権は不要という意味だ。
一見もっともらしいが、国際社会では通じない。というのは、正当防衛でも、「他人」の権利侵害を防ぐために行う行為を、「自己」の権利侵害とみなすと、定義するからだ。つまり、他国への攻撃を自国への攻撃とみなして行うことを集団的自衛権と定義するのであるから、冒頭の社説を英訳すれば、集団的自衛権の必要性を認めているという文章になってしまう。
その後で、集団的自衛権を認めないと明記すれば、「私は自分の身しか守らない。隣で女性が暴漢に襲われていようと、見て見ぬふりをして放置します」と天下に宣言しているのと同じになる。
いくら自分勝手な人間でも、世間の手前、右のような発言は表立っては控えるのが節度であろう。戦後の日本政府は、この社説と同じ態度を海外に示し続けていたと思うと、日本国憲法前文にある「国際社会において、名誉ある地位を占めたいと思ふ」を恥ずかしく思ってしまう。
ついでにいえば、憲法前文で「いづれの国家も、自国のことのみに専念して他国を無視してはならない」とも書かれている。個別的自衛権のみを主張するのは、この理念からも反している。
もちろん正当防衛と同じように、国際法のなかでは自衛権の行使にあたって歯止めとなる条件が存在する。正当防衛の条文が示している「緊迫性」があることに加えて、その防衛行為がやむを得ないといえるために、「必要性」と同時に、限度内のものである「相当性」が求められている。防衛の範囲を超えた攻撃すなわち「過剰防衛」になってはいけない。さらに、他国の「要請」があることが条件となる。民家で襲われている人が隣人の助けを拒否するとは考えにくいが、それでも最低必要限度にしなければならない。
こうした国際常識を無視して、長い間、日本の憲法の制約から集団的自衛権行使を容認しないという憲法解釈が存在してきたこと自体が驚きである。それは、アメリカが日本を封じ込める意図があったことが大きいが、政府の一部門に過ぎない内閣法制局における官僚の役割も日本独特だった。
つづく