[憲法改正⑦~竹田恒泰の憲法改正講義 下(1)~のつづき]
[戦後国体が護持されたことによって天皇と国民の関係は何も変わらなかった]
――国体が護持されたことは、当時文書や声明などで明示されたのですか。
そうです。たとえばポツダム宣言受諾の詔にも、「ここに国体を護持し得て」という言葉が、その後の帝国議会の開会宣言にも昭和天皇の言葉で、「我ここに国体を護持し得て」という言葉が入っています。
さらに日本国憲法の公布文(上諭)にも、「朕は国の礎がここに定まったことを深く喜び、これを公布せしめる」とあります。もし国体が破壊されたと解釈されていたら、天皇が国の礎が定まったことを喜んで新憲法を公布するわけがない。天皇は嘘つきになってしまいますから。
――つまり、国体が護持された結果、天皇と日本人の関係は何も変わっていないということですね。天皇については、憲法の条文を変える必要がないと。
その通りです。代わりに米国には、戦争放棄や軍の不保持など、意味不明な約束をさせられてしまったけれど、国家の連続性が否定されるようなことはなく、国の根幹にかかわる部分は守られたわけです。その意味では、天皇と国民の関係は、深い部分では何も変わっていません。
そんななかで、9条改正が叫ばれるのは当然として、「1条を守ろう」という声があまり上がってこないことには、不健全さを感じます。自民党の改正案をはじめ、天皇の位置付けを変えようという論議がなされていますが、私は「守るべきものは守るべき」だと思います。それが国民の愛国心にもつながりますから。
「国を愛せ」「日の丸を掲げよ」を
憲法で強制することは筋が違う
――愛国心という意味では、自民党の改正案については、他にも問題点が指摘されています。9条改正による国防軍の設置などは支持する声が少なくありませんが、国家や家族を敬う義務が盛り込まれることにより、国家の強制力が強まるのではないかという不安も聞きます。
それについては、「教育勅語」を復活させれば済む話では。実は戦前の教育勅語は、国民に対する強制力を国家が持つ目的のものではなく、道徳修身の1つの規範として、明治天皇が個人的に示したものに過ぎません。
本来書かれている主旨は、「天皇が勅語に書かれたことを率先してやるから、皆もやろう」というもの。自民党案に出て来る「夫婦や兄弟は仲よくしよう」という話は、本来教育勅語に書かれていたことであり、国が憲法で国民に命令する筋合いのものではありません。
たとえば、「夫婦は仲よくしなければいけない」と憲法に書かれたら、離婚した夫婦は憲法違反になってしまい、夫婦が離婚した子どもは「憲法違反の親の子ども」という負い目を持つことになる。これは変ですよね。また、大人には大人の事情があり、そもそも婚姻制度がある以上は離婚も合法。国家が介入すべき問題ではない。人々の心の自由に踏み込む憲法は、前近代的です。
「国を愛せよ」というのも筋が違いますね。以前園遊会に出席したある教育者が、「私の仕事は日本中の学校に日の丸を掲げることです」と述べたときに、天皇陛下は「それは強制でないのが望ましい」とおっしゃったそうです。
要は、「日の丸を揚げろ」という圧力で国旗を揚げるのではなく、1人1人が自発的に国旗を揚げたくて揚げる姿勢が望ましいと、陛下はおっしゃりたかったと思うのです。愛国心とは、国民1人1人が「日本はいい国だ」と感じ、自ずと持つのが理想。それを憲法で強要するのは本末転倒です。
もちろん、自民党が「国を愛せよ」という内容を改正案に書きたい気持ちは、よくわかります。戦後GHQが、日本人が日本を褒めることを禁止した結果、国民自身の心に「反日」の気持ちが根付いてしまったことを、私は常々残念に思っていました。しかし、やはりそれは憲法が介入するべきことではないでしょう。
つづく