本日は、大日本帝國陸軍大将 栗林忠道閣下の命日でございます。
米海兵隊上陸から1ヶ月余り、昭和20年3月26日未明、生き残った将兵に命じた
電文「予ハ常ニ諸子ノ先頭ニ在リ」通り、帝國陸海軍将兵約400名の先頭に立ち、
戒めていた決死の万歳突撃ではなく必至の夜襲、敵に最大限の損害をあたえる為の
攻撃を行い、東京から南方に約1200KMにある硫黄島にて、多くの部下と共に
帰らぬ人となりました。
陸上自衛隊の資料には、
「師団長(兵団長)自らが突撃した例は日本軍の戦史・戦例にはない。硫黄島での
総攻撃は極めて異例のものである」
と記されております。
明治24年(1891)7月7日、信州長野にて戦国時代から続く郷士の家に生を受けた、
「栗林忠道」大将は、大正元年にエリート陸軍軍人の主流である陸軍幼年学校卒
ではなく、一般中学から陸軍士官学校に進み、陸軍騎兵学校を経て中尉に。その後、
陸軍大学校へ入校。次席にて卒業いたしました。
騎兵連隊中隊長、騎兵監部員を経て米国に武官として駐在。
再び北米加国に駐在武官として任につき、その後も騎兵畑を歩み、英国領香港の
攻略の作戦立案。帝國陸軍は18日間という早さで撃破し香港を制圧いたしました。
昭和19年5月27日、第109師団長となり、6月8日、硫黄島に着任。
大本営直轄部隊として編成された小笠原兵団長も兼任、海軍部隊も指揮下におき
小笠原方面最高指揮官となります。
本来なら、より安全で設備の整った父島から指揮を執るところ、米国軍上陸時には、
最前線になると考えられた硫黄島に司令部を移し、自ら島内を歩き、作戦を立案、
従来の島嶼防衛・水際陣地構築及び同島の飛行場確保に固執する海軍の強硬な
反対を抑え、坑道および地下陣地を建設し、長期間の持久戦・遊撃戦にて戦います。
上陸部隊の司令官・米国スミス中将が5日で攻略する予定と公言していた
硫黄島は、栗林閣下の合理的で有効な作戦により、米軍に6倍以上の期間と
戦死6821名、戦傷21865名の損害をあたえ、米軍地上部隊の損害が日本軍の
損害を上回った稀有な戦闘でありました。
栗林閣下の辞世の句であります。
国の為 重き努を 果し得で 矢弾尽き果て 散るぞ悲しき
部下たちに華々しい死に方も許さず、一日でも長くこの硫黄島を守る事で、
本土への爆撃を遅らす事が出来る。一人でも多くの米兵を倒し、少しでも
和議の有利に繋げたいと考えた栗林閣下の心情は、大本営が改ざんし、
新聞発表した「口惜し」ではなく「悲しき」だったのだろう。
全ての兵者に敬意を表しますと共に、英霊の御霊に感謝の誠を捧げます。
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テレビにも出演している、某総合研究所代表の方が、事あるごとに、
「(イオウジマ)は、間違っている。米国が勝手に言っているだけである。
本当は、(イオウトウ)」
と言っていますが、事実誤認であります。
「硫黄島」の読み方だが、米国が「IWOJIMA」と呼んだのは、明治期の大日本帝國
海軍の海図にその記載があるからで、米国が勝手に変えたのではありません。
近年(2007年06月18日)に国土地理院は、小笠原村から地名修正の要望を受け、
東京都小笠原村所属の硫黄島の呼称を「いおうじま」から「いおうとう」へ
変更しました。
(http://www.gsi.go.jp/WNEW/PRESS-RELEASE/2007-0618.html#bessi)