大日本帝國陸軍の航空隊では、敗戦までに1180余機の特攻機を送り出し、その
先駆けとなった隊は、海軍の神風特攻隊(敷島隊など4隊)よりも2ヶ月ほど早く、
日本初の命令による特攻隊として部隊編成されていました。
(公式には昭和19年10月21日編成とされていますが、使用する機体の改装、
訓練開始時期などの事実から8月上旬には部隊編成がされていたと考えるのが
妥当であります)
その名は「万朶隊(ばんだたい)」と命名されました。
しかし、陸軍特攻隊「万朶隊」は、出撃が昭和19年(1944年)11月7日(12日
との説もあり)と海軍の神風特攻隊に2週間遅れた上、空母撃沈のような華々しい
戦果には恵まれませんでした。よって、日本軍初編成の特攻隊「万朶隊」は、海軍
の特攻隊「敷島隊」と比べますと、あまり広くには知られていません。
=陸軍特攻隊「万朶隊」隊員=
*岩本益臣大尉(隊長)
*園田芳巳中尉 *安藤浩中尉 *川島孝中尉
*中川勝巳少尉
*田中逸夫曹長
*社本忍軍曹 *石渡俊行軍曹 *鵜沢邦夫軍曹 *久保昌昭軍曹
*近藤行雄伍長 *奥原英彦伍長 *佐々木友次伍長(唯一生存)
*浜崎曹長(通信)*生田曹長(通信)
*花田博治伍長(通信)

大西瀧治郎海軍中将が、台湾新竹での航空戦の様子を見て、
「この錬度では、もはや体当たりの攻撃以外方法がない」と特別攻撃を決心し、
有馬正文海軍少将が、その先駆けとして自ら突撃を行い、宇垣纒海軍中将の
最期の特攻を敢行するまでに、多くの侍たちが、祖国の為、家族の為、そして、
日本の未来の為に「特攻」という戦法で、命を差し出して下さいました。
また、その他多くの方々が、日本国を守る為に戦って下さいました。
特別攻撃は「無駄死にだ」とか「後半になると戦果がない」などと口にする輩が
居りますが、戦争末期の沖縄戦においても、その戦果は十二分にありました。
沖縄戦をくぐり抜けた方の証言です。
「敵(米艦隊)の攻撃(艦砲射撃)は、それこそスコールの様に降り注いだ。
私たちはガマと呼ばれる天然の洞窟に避難をしていたが、水を取りに
出て行く事もままならないほどだった。しかし、ある一定の時間だけ
不思議と砲撃が止まる時があり、私たちは、その隙に水を汲みに行った。
後で分かった事だが、その一時は、特攻が行なわれており、敵艦も
そちらに砲身を向けていたからであった」
また、先の大戦「大東亜戦争」を単なる「侵略」と考える輩も居る。
あるフィリピン人の言葉です。
「かつて日本の統治を受けた台湾や韓国を見てください。立派に経済的な繁栄を
遂げているでしょう。これは日本が統治下で施した「教育」の成果です。
しかし、アメリカの統治を受けたフィリピンでは、自分たちでモノを作る事を
学ぱせてもらえなかった。アメリカが自分達の作ったものを一方的にフィリピン
に売りつけただけだった」
この言葉が、先の大戦で大日本帝國が行った「統治政策」が、欧米が行ってきた
「植民地政策」とは、明らかに違うという一つの証明ではないだろうか。
当時は、欧米列強による植民地支配が続いていた時代です。
それらの植民地化された国々では、その国の人々に私有財産は認めず、知識を
付ける事は反抗に繋がるとして、教育などを行なわず、欧米諸国が長きに渡り
行なってきた「奴隷」としての扱いでありました。
日本国は、その様な欧米列強の支配(植民地政策)に立ち向かいました。
色々な要因で負けはしまたが、日本国民のその戦い方により、戦後の統治が、
奴隷制度ではなく、平和的占領政策になったと拙者は考えております。
戦争後期の「南方戦線での玉砕」「比国での特攻」「硫黄島の徹底抗戦」
「沖縄での総力戦」で、米国を中心とする連合国は、日本国民の凄さに
実際に触れ、恐らくその頑強さに恐怖を覚えたでしょう。もし、それまで
他国で行なってきた占領政策(奴隷政策)などを行なったら、日本国民は
最期の最期まで戦い、戦争は泥沼化を避けられない、損害も莫大になる。
と考えたに違いありません。
その結果として他国の様な「奴隷」に成り下がる事もなく、日本国が日本国として
の証しであります「天皇」が有らせられる国を今尚、続けられているのです。
偉大なる先人たちが居るからこそ、今、我々は日本国に生きる事が出来るのです。

「我國の 為をつくせる人々の 名もむさし野に とむる玉かき」
明治天皇 御製 明治七年一月二十七日
全ての兵者に敬意を表しますと共に、英霊の御霊に感謝の誠を捧げます。