[昭和の侍たち・其ノ拾壱~最期の特攻①~のつづき]


昭和20年8月15日夕刻、山本五十六連合艦隊司令長官から遺贈された短刀を
持参した「宇垣中将」は、幕僚達と別れの挨拶をし、第三種軍装から中将の階級章
を外し、沖縄に向かって大分基地を離陸致しました。

第五航空艦隊司令長官・宇垣中将が出した最後の特攻命令は「5機編成」で、
長官自らが率いる「直率」というものでありましたが、選に漏れた者の中からも
志願者が出て結局11機、22名と長官の23名による特攻となりました。

この時の様子を途中、機体の故障により不時着した「二村治和一飛曹」は、

「一番機の操縦は中津留大尉、その後席に宇垣中将と遠藤飛曹長が乗り込んだ。
 一番機に続いて二番機の私も離陸、初めて積んだ八〇〇キロの重さで、
 一、〇〇〇メートルの滑走路を一杯に使ってようやく海面スレスレに浮上した」
                       (最後の特攻出撃/二村治和著)
 
と語っております。

南西の海に浮かぶ沖縄を目指した宇垣中将率いる彗星の編隊は、途中3機が
故障により戦列を離れる事となります。
同日1924(午後7時24分) 宇垣中将は最期の電文を送信。

「過去半歳にわたる麾下各部隊の奮戦にかかわらず、驕敵を撃砕し神州護持の大任
 を果すこと能わざりしは、本職不敏の致すところなり。本職は皇国無窮と天航空
 部隊特攻精神の昂揚を確信し、部隊隊員が桜花と散りし沖縄に進攻、皇国武人の
 本領を発揮し驕敵米艦に突入撃沈す。指揮下各部隊は本職の意を体し、来るべき
 凡ゆる苦難を克服し、精強なる国軍を再建し、皇国を万世無窮ならしめよ。
 天皇陛下万歳。」

そして、2025(午後8時25分) 突入を示す長符を最期に無線は途絶えます。


後に「終戦の詔書」放送後の出撃は、「私兵特攻を行った」と一部から批判を
浴びる事となったこの最期の特攻でありますが、正式に(法的にも)大本営からの
停戦命令(大海令第四八号)が示達されたのは翌16日の午後4時であります。


=宇垣特攻隊編成表=
彗星艦上爆撃機11機(乗員23名、800kg爆弾搭載)

操縦員    偵察員
中津留達雄大尉  遠藤秋章飛曹長  *宇垣長官同乗  
          沖縄県伊平屋島前泊港南側海岸浅瀬に墜落
伊東幸彦中尉    大木正夫上飛曹   消息不明・一般戦死扱い
山川代夫上飛曹  北見武雄中尉     消息不明・一般戦死扱い        
池田武徳中尉    山田勇夫上飛曹   消息不明・一般戦死扱い
渡辺操上飛曹    内海進中尉      消息不明・一般戦死扱い
後藤高男上飛曹  磯村堅少尉   沖縄県伊平屋島前泊港北側海岸に墜落
藤崎孝良一飛曹  吉田利一一飛曹    消息不明・一般戦死扱い
松永茂男二飛曹  中島英雄一飛曹    消息不明・一般戦死扱い
前田又男一飛曹  川野良介中尉      不時着・生還
川野和一一飛曹  日高保一飛曹      不時着・日高一飛曹のみ死亡
二村治和一飛曹  栗原浩一二飛曹    不時着・生還



$どちて坊やが隠居をしたら~毎日が徒然~


昭和19年10月から沖縄戦までに、陸海軍 合わせて、2450余機が、
「特攻」として未帰還となり、3900余名の命が失われました。
航空機を使用した「桜花」特攻の他にも、海軍の「回天」「海竜」「震洋」などの
作戦があり、陸軍の「丹波戦車特攻」「海上挺身隊(マルレ)」などの作戦にての
特攻や特攻を支援した部隊からの戦死者もあり、合計すると14,000余名になります。


その特攻という「体当たり攻撃」を最初に命令、指揮した、大日本帝國海軍
「大西中将」は、終戦の詔書の放送が行なわれた翌日、自決いたしました。

=大西瀧治郎中将遺書=
「特攻隊の英霊にもうす。善く戦ひたり深謝す。最後の勝利を信じつつ
 肉弾として散華せり。然れども,其の信念は遂に達成し得ざるに至れり。
 吾、死を以て旧部下の英霊と其の遺族に謝せんとす。
 次に一般青少年に告ぐ 
 我が死にして軽挙は利敵行為なるを思ひ 聖旨に副ひ 奉り自重忍苦するの 
 誡ともならば幸なり。隠忍するとも日本人たるの矜持を失ふなかれ。
 諸子は国の宝なり。平時に処し猶克く特攻精神を堅持し日本民族の福祉と
 世界人類の為 最善を尽くせよ。」


全ての兵者に敬意を表しますと共に、英霊の御霊に感謝の誠を捧げます。