[昭和の侍たち・其ノ九~夜間戦闘機隊/特攻を拒否した男①~のつづき]


来るべき沖縄戦に対して、練習機も含めた「全機特攻(体当たり攻撃)」の
命令に対して、一歩間違えば「抗命」にて、軍法会議にかけられる事も厭わず、
論理的、合理的に反論し、夜間攻撃航空隊「芙蓉部隊」をその対象から除外させる
事に成功した「美濃部 正」少佐は、以降「艦上爆撃機 彗星」及び「零戦」を
もって訓練を開始、昭和20年3月、沖縄攻防戦にあたり主力を鹿児島県
「鹿屋基地」に移し、菊水1号作戦発動とともに沖縄在泊の敵艦船及び
同敵飛行場に対し夜間攻撃を開始しました。

鹿屋基地が、頻繁に空襲される様になった5月中旬には、大隅半島内にある
「岩川基地」(鹿児島県大隅町)に移ります。
この基地は、その特性上、滑走路上に移動式の小屋を置き、周りに刈草を敷いて
牛10頭を放牧するなど数々の偽装が施されており、
終戦時まで、米国に知られる事がありませんでした。
現在は「芙蓉の塔」が建っており、その付近に滑走路があったという事です。

6月23日、本土決戦に備えて各部隊が、本州に引き上げる中、美濃部少佐率いる
「芙蓉部隊」は、最期まで岩川基地に留まり出撃を繰り返します。

8月に入っても連日10数機を沖縄方面に出撃させ、「終戦の日」15日も
「薄暮攻撃」をかける予定でありました。

芙蓉部隊は、1機の特攻攻撃機も出すことなく、終戦まで夜間攻撃をもって
戦い続け多くの戦果を上げました。

出撃回数:81回、
延べ出撃機数:786機、
未帰還機数:43機
戦死者数:105名

=戦果=
・戦艦の撃破 1隻
・巡洋艦の撃破 1隻
・大型輸送船の撃破 1隻
・飛行場大火災 6回
・空母群発見 4回
・敵機夜戦撃墜 2機


他の部隊が、特攻作戦等により著しく戦力が枯渇していく中、犠牲を伴いながらも
攻撃を継続できたのは、美濃部少佐の優れた能力とそれを認め、ある程度自由に
動けるようにした上官の力ではないでしょうか。

芙蓉部隊は、藤枝基地(静岡県)という後方基地において新人を訓練し、随時交代
させるという帝國海軍としては他にない仕組みを確立していました。

また、搭乗兵だけでなく、地上の整備兵に対する指揮も怠らなかったと、
元整備兵は、語っております。
その結果は、他部隊での稼働率が40%程度でしかなかった「彗星」の稼働率を
80%以上に保ち、稼働率が高いとされていた「零戦」ですら他部隊では稼働率が
50%まで低下している中、90%以上の稼働率があったと記録されています。

他の士官の様に、ただ命令するだけでは、部下は付いては来なかったでしょう。

停戦の命令が下ると、美濃部少佐は納得しない兵たちに向かい、
「部隊は陛下のものである。それでも納得しないなら自分を切ってからにしろ」
と言い、若い搭乗員達に
「残った飛行機でそれぞれの故郷に帰るよう」命令をしました。
国土の威たる都市が焦土と化し、国内の交通が断絶していた中、せめて一刻でも
早く若い搭乗員達を故郷の両親のもとに送り返したかったのだと思います。

そして、最期に
「日本も又いつか復興することもあるかもしれない。その時は又ここで会おう」
と訓示したと伝わります。

敗戦後、美濃部少佐は航空自衛隊に入り、空将として退官。
平成7年、82歳でお亡くなりになった。

廻りから臆病者呼ばわりされる中、
「大事な部下に、死刑のような無茶な命令は下せない」と信念を貫いた
美濃部 正少佐でありますが、戦後に「特攻」について次のように語っております。

「戦後よく特攻戦法を批判する人があります。それは戦いの勝ち負けを
 度外視した、戦後の迎合的統率理念にすぎません。
 当時の軍籍に身を置いた者には、負けてよい戦法は論外と言わねばなりません。
 私は不可能を可能とすべき代案なきかぎり、特攻もまたやむをえず、
 と今でも考えています。戦いの厳しさは、ヒューマニズムで批判できるほど
 生易しいものではありません」  (彗星夜襲隊/ 渡辺 洋二著)


全ての兵者に敬意を表しますと共に、英霊の御霊に感謝の誠を捧げます。