久納中尉は特攻「ゼロ号の男」とも言われています。
大日本帝國海軍が公式に「特攻第1号」としているのは、
昭和19年10月25日に比国パンパンガ州マバラカット飛行場から飛び立った
「敷島隊々長・関行男大尉」でありますが、
その4日前、21日に特別攻撃隊全隊出撃の命により、飛び立った際、
各機が、天候不良の為に敵艦を発見すること出来ずに帰還する中、未帰還となった
爆装の零戦がありました。
比国セブ基地から出撃した、神風(しんぷう)特別攻撃隊・大和隊の
久納 好孚(こうふ・よしたか)中尉(少佐)であります。
久納中尉は、この日(21日)の前日、整備兵に
「(愛機の零戦に)弾は積なくてよい。明日の出撃には必要ないから」と言い、
周囲の者には、
「明日出撃したら絶対に戻ってこない。空母が見つからない時はレイテ湾へ行く。
レイテに行けば目標は必ずいますから」
と洩らしていたと伝われます。
そして、その言葉通り、この日唯一の未帰還機となったのです。
当初は、戦果不明・未帰還と処理されていた久納中尉であるが、約1ヵ月後の
11月13日、特攻戦死とされ、、2階級特進し少佐になっております。
米海軍にはこの日に特攻(体当たり攻撃)による被害記録はありません。
そして、23日に特攻出撃し未帰還になった者がいます。
セブ基地から出撃した大和隊「佐藤馨上飛曹」であります。
早朝に3機編隊(爆装2・直掩1)でスルアン沖の敵空母を目指し出撃するが、
途中、列機である「石岡義人一飛曹」が、エンジン不調で引き返えします。
記録の上では、直掩機がいた事になっていますが、詳細は不明。
佐藤機は、単機体当たりを決行したと思われるが詳細は不明となっている。
後にスルアン沖で特攻死したとされます。
しかし、23日に米軍側から特攻よる被害を受けたという発表はありません。
また、組織的な戦術として「特攻」が開始される前の10月15日、
特別攻撃隊の先駆けともされている、将官による突撃がありました。
比国パンパンガで指揮を取っていた第26航空戦隊司令 有馬正文少将であります。
有馬少将(中将)は、この日、台湾沖航空戦第二次攻撃隊(攻撃隊一式陸攻13機、
直援隊零戦16機、陸軍制空隊四式戦70機)の一番機に搭乗し出撃します。
「戦争は偉く年をとった人から死んでいかないといけない」と
正に帝國海軍の伝統「指揮官先頭 率先垂範」を実践しました。
基地に残された遺書には、
「自分、自ら必殺の特攻となってその範を示す。願わくば心ある後輩、我に続き、
この危急存亡にあたり護国の大任を果たされんことを望む」
とありました。この時の掩機は、「久納 好孚中尉」でありました。
久納中尉は、尊敬する有馬少将に続いたのでしょう。
レイテ沖海戦に向けて「やむおえず」「この作戦限り」で始まった特攻(体当たり)
作戦は、その意向に反し、その後も継続されていき、10月27日、29日には、
第二次神風特別攻撃隊が編成され、出撃していきます。
この様にして、昭和19年10月から決行された「特別攻撃」でありますが、
翌年、昭和20年1月25日、士官一名(住野英信中尉)、下士官三名の
特攻出撃が準備され、出撃します。
これが、比国での最後の特攻機となりました。
10月21日から1月25日までの約三ヶ月間、
海軍の特攻は、333機(未帰還)、
11月7日から始まった、陸軍は202機と記録されております。
そして、その後も台湾、九州からと場所を変えて特攻は継続されていきます。
全ての兵者に敬意を表しますと共に、英霊の御霊に感謝の誠を捧げます。