[昭和の侍たち・其ノ四~神風(しんぷう)特別攻撃隊/敷島隊①~のつづき]
昭和19年10月20日朝には「神風特別攻撃隊」の隊長の選任、隊員の選抜、
部隊編成がすでに完了し、出撃準備が着々と進んでおりました。
午前10時、大西中将は、全員集合を命じ、
神風特攻隊の訓示と命名式を行ないます。
この時命名された隊は、本居宣長の古歌
「敷島の 大和心を 人問わば 朝日に匂ふ 山桜花」からとり、
それぞれ「敷島隊」「大和隊」「朝日隊」「山桜隊」とされ、
各隊3機ずつ配属されました。この4隊から漏れた甲十期生は、
一種の独立した立場に置かれた「菊水隊」へ編入されました。
太陽が西に傾き始めた午後三時ごろ、神風特別攻撃隊・敷島隊の居るマバラカット
飛行場から南東に500km強、サマール島の更に遠方東海面に敵部隊発見の
報が入るも、大西中将は「この(体当たり)作戦は絶対のものだから、不確実な
情報で出させることは出来ない」と、出撃は見送りました。
そして明21日(土)午前9時、哨戒機がレイテ島(飛行場より東南東約600km)東方
の海面に敵機動部隊を発見しました。この報が入るや否や敷島隊は、マバラカット
西飛行場から出撃します。同時に朝日隊は東飛行場へ向い出撃いたします。
その後、大和隊・山桜隊と続き、合計24機が出撃したが、同日は悪天候などに
阻まれて敵米国機動部隊は発見できず、関行男大尉率いる敷島隊は全機、断腸の
思いで探索を中止し、レガスビー飛行場(比国アルバイ州)に着陸、燃料補給後、
翌日22日マバラカットに帰投しました。
この日の出撃で、セブ飛行場から出撃した、大和隊々長「久納好孚中尉」が、
未帰還となります。
10月22日は、山桜隊3名(直掩2機あり)が、初出撃しますが、天候不良のため
敵発見できず全機帰投しています。
10月23日、24日と敷島隊5名(直掩4機あり)は、2回目、3回目の出撃を
します。しかし、両日とも天候不良のため敵発見できず、全機帰投となります。
23日、セブ飛行場より出撃した大和隊「佐藤馨上飛曹」が未帰還。
この様に、第一神風特別攻撃隊各隊は、体当たり(特攻)すべき敵艦を求め、何度も
出撃を繰り返します。この強靭な精神力は、何から生まれたのでしょうか。
本当に尊敬の念を抱きます。
「関行男大尉」が、新聞記者・海軍報道班員に語ったとされる記録があります。
【報道班員、日本もおしまいだよ。僕のような優秀なパイロットを殺すなんて。
僕なら体当たりせずとも、敵空母の飛行甲板に50番を命中させる自信がある!
僕は天皇陛下のためとか、日本帝国のためとかで行くんじゃない。
最愛のKAのために行くんだ。命令とあらば止むを得まい。
日本が敗けたらKAがアメ公に強姦されるかもしれない。
僕は彼女を護るために死ぬんだ。最愛の者のために死ぬ。
どうだ、素晴らしいだろう!?】(特攻 外道の統率と人間の条件/森本忠夫著)
言葉を切り取ると「特攻」を受け入れられず、悲観的になり、精神的に不安定に
なっているようにも見られるが・・・
しかし、19日このマバラカットに着た零戦隊の黒澤丈夫少佐が、関大尉について
戦後に語った記録が残っております。
『彼はその時、机に向って何か書いていました。おそらく遺書だったのでしょう。
その後、一日半ぐらい行動をともにして、同じところで休んだりもしました。
関君はお腹をこわしていて、決してバリバリした感じではなかったが、捨て鉢な
感じも意気消沈した様子もなく、厳粛そのものの姿に見えました。
関君もほかの隊員も、生への執着がなかったとは言えないと思う。
それを断ち切って、自分たちが日本を救うんだ、という気持ちになりきって
いたように思うんです。』(特攻の意志/大西瀧治郎著)
(つづく)
全ての兵者に敬意を表しますと共に、英霊の御霊に感謝の誠を捧げます。