今から69年前、昭和19年(1944年)10月25日午前10時49分、
神風特別攻撃隊・敷島隊指揮官の関大尉(戦死後中佐)以下5機が、
比国レイテ湾沖約167kmの地点で、米海軍スクラーブ艦隊に
特攻(体当たり攻撃)を決行し、空母「セント・ロー」を撃沈、
他3隻に損害を与えました。
これが、公式に発表された大日本帝國海軍特別攻撃隊の「第一号」であります。
昭和19年10月19日夕刻、
「第一航空艦隊司令長官:大西瀧治郎中将」
「第26航空戦隊:吉岡忠一参謀」
「201航空部隊:玉井浅一副長」
「戦斗第305飛行隊長:指宿正信大尉」
「戦斗第311飛行隊長:横山岳夫大尉」
「猪口力平:第一航空艦隊参謀」
の6名は、熱帯の暑さが篭る室内を避け、2階のバルコニーに集まりました。
「空母を一週間位使用不能にし、捷一号作戦を成功させるため零戦に250㎏
爆弾を抱かせて体当たりをやるほかに、確実な攻撃法は無いと思うがどうだろう」
と、大西中将が切り出します。
これを受けて、201航空部隊・玉井副長は、
「司令不在の為、自分だけでは決められません」と返答するが、大西中将の
「(山本栄)司令には同意を得ている」「この作戦を決行するか否か」と言い、
玉井副長に作戦実行を一任致しました。
玉井副長、飛行隊長の指宿大尉・横山大尉は、一度その場を離れ、暫しの間、
この作戦の効果を検証し、体当たり攻撃(特攻)を決意。その旨を大西中将に伝え、
その際「攻撃隊の編成は航空隊側に一任させて頂きたい」と要望、大西中将は、
それを許可致しました。
ここに「神風(しんぷう)特別攻撃隊」は編成されることになりました。
比国パンパンガ州にある、第201海軍航空隊本部での事であります。
隊長の選抜とともに部隊編成もこの夜慌しく編成をし、第一陣特攻隊々長は、
「関行男大尉」が指名され、隊員には第十期甲種飛行予科練習生から選出された。
関大尉は、この隊長指名(命令)が下った際、その場で熟考の後、
「ぜひやらせて下さい」と即答したとも「一晩考えさせてください」と即答を避け
たとも伝わりますが、隊員の召集などの他の事象を時系列で追っていきますと、
即答したものと考えられます。
猪口参謀の提案で「指揮官は海軍兵学校出身者の士官搭乗員から選ぶ」とされ、
関大尉の他に同じ70期の
「菅野直大尉(昭和20年8月1日鹿児島県屋久島西方にて戦死)」
「平田嘉吉大尉(昭和20年1月、252空戦闘308飛行隊々長着任の為内地へ移動。
昭和51年6月没)」
の2名がおりましたが、菅野大尉は日本へ航空機受領に行っていて不在。
平田大尉ではなく関大尉を指名した理由として、
「何度も出撃への参加を志願していたことが強い印象として残っていたからだ」
と、玉井副長は後年になって回想しておりますが、真実の所は当事者にしかわから
ないことです。
その日(10月19日)の夜9時すぎ、第十期甲種飛行予科練習生総員33名は、
本部に集合、玉井副長より、大西中将(司令長官)の決定を聞き事となります。
この総員集合に参加した高橋保男(生存)は次のように語っております。
『19日夜9時頃、「甲10期生総員集合」がかかった。その時、集合した
甲10期生は33名であった。飛練教程を終えて、一航艦の各戦闘機隊に配属
された同期生220名の中、約三分の二は戦死していた。夜道を本部へ急ぐ途中、
誰からともなく、ついに特攻かといったささやきがでた。集合した甲10期生の
前には幹部たちが並んでいた。
戦況や大西長官の決意などを説明した後、
「貴様たちで特攻隊を編成する。日本の運命は貴様たちの双肩にかかっている。
貴様たちの手で、大東亜戦争の結末をつけるのだ」
と結んだ。この最後の声だけは、いまも耳の底に焼きついている。玉井副長は
われわれ甲10期生に、体当たり攻撃を命令したのだ。日本の運命を左右する
重大な責任を負わされたことで、若いわれわれは非常に感激し、文句なく全員が
賛成した。』
内地から玉井中佐の部下として仕え、甲10期生総員集合に出席した井上武(生存)
は、次のように記しております。
「玉井さんは、敵がレイテに上陸して来たというようなことを説明したあと、
『今の状態では、とにかく貴様たちに特攻をやってもらうより仕方ない。たのむ』
といった。
私は玉井さんが言った『特攻隊』という言葉には特別な印象も、ショックも
受けなかった。それまで決戦に備えて飛行機を少しでも温存しようとしたのか、
上の人たちには何かにつけて消極的であった。そんな上層幹部にたいし、搭乗員の
間では、不平不満が高まっていた。われわれは徳島空の頃から玉井さんとは一緒
だったので、心易く話ができた。
『もっと積極的に打って出ましょう。体当たり攻撃するくらいでなければ、
だめですよ』というようなことを強く訴えていた。したがって、このときも特攻
というより、玉井さんが甲10期生を最後の切り札にする決心をされたんだなと
いう感じを受けた。もう一つ、体当たりを命じた人が、ほかでもない
263空豹部隊から一緒だった玉井さんであったということが、特攻にそれほど
抵抗をもたなかった原因と思っている」
(神風特攻の記録/金子敏夫著、特攻とは何か/森史郎著)
甲10期生総員集合が解散したのは午前零時を過ぎていたと伝わります。
(つづく)
全ての兵者に敬意を表しますと共に、英霊の御霊に感謝の誠を捧げます。