[大日本帝國海軍「戦艦三笠」①のつづき]


大正12年(1922年)のワシントン海軍軍縮条約に乗っ取り、廃艦、解体が、
予定されていた「三笠」であるが、保存運動が勃興し、条約に基づき現役に
復帰できない状態にすることを条件に保存されることが特別に認められ、
大正14年1月に記念艦として横須賀に保存することが閣議決定されました。

舳先を皇居に向け、海底に固定され、その名を「戦艦三笠」から「三笠記念館」
として変え、解体をのがれたのであります。

しかし、またもや「三笠」に危機が訪れます。
大東亜戦争の敗北により、占領軍の管理下におかれた際、蘇連国(ソ連)が、
難癖をつけたのであります。
恐らく、日本海海戦の復讐がしたかったのでしょう。
しかし、米国海軍のニミッツ提督や同陸軍のウィロビー少将らが説得し、
渋々、蘇連国も引き下がります。

日本海海戦時の「東郷閣下」「連合艦隊旗艦・三笠」は、戦勝国である
米国指揮官たちにとっても誇りだったのでしょう。

ところが、横須賀に進駐してきた一般の兵士たちは、そのような米国軍上層部とは
違い、記念品とはかりに、三笠の部品を手当たり次第に持ち去ります。
このような米兵による略奪行為は、南方戦線や硫黄島占領時にも見られました。

その上、管理を保存会から民間業者委託にし、砲台やマストなども取り払い、
艦橋には、「ダンスホール」を作り、その下部の艦長室や作戦司令室には
「キャバレー」と「カフェ」を作り、後部砲台部には「水族館」まで作り、
米兵たちの娯楽施設としてしまいます。

また、朝鮮戦争勃発による資源不足の為に、この民間業者は、取り外せそうな
金属類は機関部に至るまで外し売却。甲板部のチーク材の床まで剥がし、
売却したそうです。

敗戦後の大変な時期とはいえ、悲しい限りであります。

昭和27年4月28日、講和条約が発効され日本国は占領下から独立しました。
戦後復興も一段落し、徐々に人々の間にも「国家再興の念」が、高まります。
そのような中、「三笠」惨状を見た一人の国士「中村虎猪」元帝国海軍大佐は、
「何とかしなくては」と考え、昭和30年、「三笠の復元」を公約にして
市議会議員に立候補します。そして見事に当選致します。

市議会とはいえ、民意を得た中村氏は、当時の持ち主・湘南振興会に掛け合い、
日本政府にも陳情いたします。
地元の新聞にも「三笠復元」を掲載し、より多くの賛同を得る為、尽力します。

昭和30年、時同じくして、一人の英国人が商用で来日しました。
この英国紳士の老人は、「三笠」を一目見ようと、横須賀を訪れます。

この紳士は「三笠」が、英国のバーロー・イン・ファーネス造船所で
建造されていた時、近くに住んでおり、その戦艦が、遠く亜細亜の島国、
日本の海軍に引き渡された事、そして、あの露帝国のバルチック艦隊を破った事を
知っており、自国生まれの戦艦「三笠」に愛着と誇りを持っておりました。

しかし「三笠」と再会を果した老紳士は、目を疑います。
余にも酷い姿の三笠の変わり果てた姿に嘆きを通り越し怒りを覚えました。

「何という日本人は忘恩の国民なのだ。
戦い敗れると、英雄トーゴーとミカサのことも忘れてしまったのか。
神聖なるミカサが丸裸になり、ダンス・ホールやアメリカ兵相手の映画館に
なったのを黙って見ているのか。
何たる日本人は無自覚であることか」

そして、その怒りを英字紙「ジャパンタイムズ」に投書いたします。
これが、各方面で反響を呼ぶ事となり、復元保存運動が徐々に盛り上がりを
見せていきました。

昭和31年に元情報局総裁であった下村海南氏が、三笠の荒廃ぶりを
「軍艦三笠」という小冊子に書き上げ、各方面に配布します。

三笠復元に世間の目が集まり始めると、月刊誌も関連記事を掲載し始めます。
軍事評論家の伊藤正徳氏は「戦艦三笠の栄光と悲惨」という論文を
「文藝春秋」に寄稿します。
そして、米・大平洋艦隊司令長官ニミッツ元帥の文章「三笠と私」が、同じく
「文藝春秋」掲載されるたのも功を奏しました。
ニミッツ元帥は、海軍にも働きかけ、横須賀係留の廃艦一隻を解体し、その利益
約三千万円を寄付。復元費に充当されます。

「三笠」は、一旦防衛庁(当時)に移管され、
昭和33年、三笠保存会設立準備委員会が設立されます。
その2年後、昭和35年の(財)三笠保存会設立とともに、復元工事が、
開始されました。

中々、部品が集まらない中、幸運な事も起きました。
同じ英国で建造された南米大陸の智利共国の戦艦「アルミランテ・ラトーレ」が、
日本で解体される事になり、この部品の寄贈を智利政府から受けられる事となっ
たのです。

そして、約1年の歳月を経て、「戦艦 三笠」は、外装の復元を終え、
その後、司令長官室などの復元も行なわれております。


現在は、周辺整備も行なわれ「三笠公園」として、
その勇姿を我々に見せてくれております。