戦艦 三笠
大正12年9月20日、大日本帝國海軍・霧島型戦艦四番艦「戦艦三笠」が、
帝國海軍から除籍になりました。
あの日露戦争・日本海海戦で「旗艦」を努めた「三笠」であります。
明治35年(1902年)3月、英国バロー・イン・ファーネス造船所で建造された
「三笠」は、帝國海軍に引き渡されました。
建造費用は当時の金額で船体が88万ポンド、兵器が32万ポンドであります。
(1900年頃の物価、為替等を考慮し、現在の価値にすると1ポンドが2万円強
になりますので、240億円強。
また、レートだけで考えますと1ポンド≒10円→120万ポンド≒1200万円に
なります。当時の国家予算は、3億円弱ですので約4%にあたります)
この英国バロー・イン・ファーネスは、現在でも潜水艦の生産設備として、英国
随一を誇る規模で存続しております。
また、西部にあるウォルニー島には戦艦三笠を記念し、「Mikasa Street」と
名付けられた通りが存在し、市長室には、東郷平八郎より贈られた記念品が
飾られているそうです。
母港・舞鶴に到着した「戦艦三笠」の初代艦長は「早崎源吾大佐」であります。
明治36年(1903年)、「三笠」は、大日本帝國連合艦隊の旗艦となり、
翌年2月6日から日露戦争に加わり、旅順口攻撃や旅順口閉塞作戦に参加、
8月には黄海海戦に参加しました。
一旦、呉に入港、修理の後、翌明治38年2月に出港、朝鮮半島の鎮海湾に
進出します。
そして、5月27日~28日にかけ日本海海戦で露帝国海軍バルチック艦隊と
交戦し、歴史的大勝利をいたします。
この影には、英国によるバルチック艦隊にたいする「嫌がらせ攻撃」による、
功績があった事を日本人は忘れてはいけないと思います。
小村寿太郎外相の功績「日英同盟」の賜物です。
しかし、日露戦争終結直後の明治38年9月11日に「三笠」は沈没します。
敵の攻撃ではなく、佐世保港内で爆発事故を起こしてしまったのです。
原因は定かではありませんが、一説によると乗船していた水兵が、信号用
アルコールを飲む為、火をつけて匂いを飛ばそうとしたところ、誤って
ひっくり返してしまい、その火が弾薬に引火、誘爆したとされております。
港内だったので、翌年には引きあげを行い修理され、2年後の明治41年4月には
連合艦隊の旗艦として復帰致しました。
元号が、明治から大正に変わり、第一次世界大戦に日本も参戦することとなり、
日本海での警備任務や蘇連邦国に対する牽制の為にシベリアにも向かいます。
大正10年9月16日、アスコルド海峡で濃霧の中を航行中座礁し大きく損傷し
浸水した為、ウラジオストクに入渠し応急修理を行い、母港・舞鶴に帰港します。
大正12年9月1日の関東大震災時には岸壁に衝突。この時に応急修理のままで
あった破損部位から大浸水を起こし、そのまま着底してしまいました。
予てから軍縮条約によって、廃艦が決まっていた「三笠」は、
遂に9月20日、帝国海軍から除籍されたのであります。
(つづく)