明治38年(1905年)9月5日、米国ポーツマスにて、大日本帝国と露帝国の間に
米国大統領立会いの下「日露講和条約」が締結されました。
俗に言う「ポーツマス条約」であります。
日露戦争・朝鮮半島陸戦/日本海海戦を圧勝し、大日本帝國は、当時の戦争の
常道通り、露国と開戦当初から行なっていた和平交渉の仕上げに入ります。
まず、日本国・駐米公使の高平小五郎を通じて、米国に対して公式に
「中立の友誼的斡旋」を依頼、和平会議の開催を促します。
当時、やっと大国にのし上がってきた、ペリー提督来日依頼の親日国・米国の
立場を上手く利用したのです。
余談ですが、この高平公使は、この後、1908年に「高平ルート協定」という
東アジアにおける日本に有利な友好協定を締結させています。優秀ですね。
高平公使の事前からの根回しもあり、米国はこれを了承、明治38年6月9日に
両国に対し講和交渉の開催を正式に提案し、同月10日に大日本帝國、
12日には露帝国が受諾し会議が開催される事となります。
日本の全権代表は、小村寿太郎外務大臣であります。
対する露国は、セルゲイ・ウィッテ全権代表であり、両国を取り持つのが、
米国セオドア・ルーズベルト大統領でありました。
小村外務大臣(首席特命全権大使)は、日本を出発する際、盛大に見送られますが、
桂首相に対し「新橋駅頭の人気は、帰るときはまるで反対になっているでしょう」
とつぶやくように告げたと伝わっております。
これは、当時、新聞などが、講和の最低条件として、
「償金30億円、樺太・カムチャッカ半島・沿海州全部の割譲」などと国民を
過度に煽り、その様な世論を自由民権運動派が利用し、更に国民に多大な期待を
させたという背景から来るものだと考えられます。
この頃の日本外交は、交渉力がありました。
当初に露国側に提示したのは12ヶ条です。当然多めの要求です。
朝鮮半島から露国兵を追い出し、バルチック艦隊を破ったとしても、相手の露国は
大国です。強気な交渉をしてくるのは、当然予想されました。
ですから始めから削られても良いように多めに厳しい内容を突きつけたのです。
この戦争の目的は、満州、朝鮮から露国を追い出す為です。
そして、朝鮮半島における日本国の優越権です。
その目的は、オマケ付きで達成しました。
・露国は、南満州線と付属地の炭鉱の租借権を日本へ譲渡する
・日本の朝鮮半島39度線以南の優越権を認める
・日露両国の軍隊は警備隊を除いて満州から撤退する
(ことにより南満州が日本の勢力圏になります)
・露国は関東州の租借権を日本へ譲渡する
・露国は樺太の北緯50度以南を永久に日本に譲渡する
・露国は沿海州沿岸の漁業権を日本人に与える
・露国はは遼東半島を除いて、満州を支那に返す
小村外交の大勝利であります。
一方、この講和条約が締結されるとその内容について、朝日新聞などが
「講和会議は主客転倒」「桂太郎内閣に国民や軍隊は売られた」「小村許し難し」
などと書き、また一部活動家や東京帝大博士などの扇動などもあり、日比谷公園で
行われた「自由民権運動派」の集会をきっかけに暴動(日比谷焼討事件)が発生、
内務大臣官邸、小村私邸、国民新聞社、交番などを襲って破壊をしました。
それに続き、神戸、横浜などでも暴動が起きます。
残念な事に、小村寿太郎全権大使が出発前に言った通りになってしまいました。
しかし、この講和に対する諸外国からの評価は高く、好意的な報道をする外国
メディアも少なくなかったといいます。
小村寿太郎氏は「仕事は後世の人間が判断することである」として、
一切日記等を付けなかったとされております。
その後世・平成の世から見ても優れた立派な御仁である事は間違えないでしょう。
日本国は「日露戦争」において、約8万8千余の命を失い、
負傷者は15万余人を数えます。
こうした犠牲の上に、日本国の権利が守られ、一等国入りする事が出来たのです。
そして、この勝利により白人に植民地とされていた国の人々を勇気付ける事にも
なりました。
全ての兵者に敬意を表しますと共に、英霊の御霊に感謝の誠を捧げます。