$どちて坊やの隠居記~徒然なる日々~

昭和20年(1945年)9月2日、
東京湾内に停泊した米国戦艦ミズーリ前方甲板上にて、大日本帝國と連合国との
間で、大東亜戦争(第二次世界大戦・太平洋戦線)の休戦協定(停戦協定)が、
交わされました。

この時、戦艦ミズーリに「48星の星条旗」の他にペリーの黒船に掲げられていた
「31星の星条旗」も掲げられていました。(如何にも米国人の考えそうな事です)

8月16日「ポツダム宣言②~無条件降伏ではない~」にも記したが、
条件付き降伏であります。

以下がその条件
*日本軍全軍へ無条件降伏布告。全指揮官はこの布告に従う
*日本軍と国民へ敵対行為中止を命じ、船舶・航空機、財産の毀損を防ぎ
連合国軍最高司令官の指示に基づき日本政府が下す要求・命令に従わせる
*公務員と陸海軍の職員は非戦闘任務を引き続き継続し、連合国軍最高司令官が
 発する命令・布告・その他指示に従う 
*ポツダム宣言の履行
*天皇及び日本国政府の国家統治の権限は本降伏条項を実施する為、
 連合国軍最高司令官の制限の下に置かれる
*連合軍将兵捕虜を即時解放し、必要な給養を受けさせる
*休戦に伴う軍事措置


昭和天皇及び大日本帝國政府の命により、この調印式に日本側の代表として出席、
署名したのが「重光葵(外務大臣)」であり、大本営の命により署名したのが、
「梅津美治郎(参謀総長)」であります。

「重光葵(まもる)」といえば、昭和7年(1932年)4月29日、上海での
天長節(天皇誕生日)の祝賀会中に朝鮮人運動家(テロリスト)による爆弾によって、
右脚切断という重症を負った人物であります。
後に「爆弾が投げつけられた時になぜ逃げなかったのか」という問いに対して、
「国歌斉唱の最中である」と答え「その場に居た皆が逃げなかった」と続けた
誠に立派な方であります。

この爆弾テロにより日本国要人、
河端貞次(上海居留民団 行政委員会会長)が即死、
白川陸軍大将は、重傷(のちに死亡)
葵重光(当時)駐華公使(右脚切断)
野村吉三郎海軍中将(右眼を失う)
植田謙吉陸軍中将、村井倉松在上海総領事、
友野盛(上海日本人居留民団 書記長)が重傷を負いました。


戦艦ミズーリ
1944年6月にアメリカ海軍最後の戦艦として就役し、大東亜戦争(WW2太平洋戦線)、
朝鮮戦争、湾岸戦争と戦い抜いたミズーリは、現在ハワイの真珠湾にて、
大東亜戦争開戦の火蓋を切った真珠湾攻撃の際に沈没した戦艦アリゾナの後方に
係留され博物館として、公開されています。