[真の武者たち・其ノ四~よもやご法度破りではござるまいな~のつづき]


井伊直政の一団による「ご法度破り」にて始まった関が原の合戦でありますが、
その後の才蔵の動きは鬼神の如くでありました。

自馬に飛び乗ると敵陣目掛け、雄叫びをあげながら馬を走らせます。
いつもなら相手を選りすぐり、少しでも名のある武者を目掛けて進むのですが、
この日の才蔵は違いました。
「抜け駆け」をされた怒りの全てを戦いに向けました。

戦場は鉄砲隊の攻撃が終わり、敵味方が入り乱れる乱戦となります。
これこそ、才蔵の様な武者の本領を発揮する場です。

一人、二人、三人と相手を倒し、才蔵付きの小者がいつもの様にその首級に
笹の小枝を銜えさせます。
才蔵は、次から次へと対峙した武者と槍を交えていきます。
四人、五人、六人、七人。

福島勢約六千、御味方勢・京極隊約三千、藤堂隊二千五百、寺沢隊二千四百が、
繰り返し攻撃を仕掛けますが、対する宇喜多勢は約一万七千、福島方は、徐々に
押し戻されていきます。

才蔵は、「引くな」と叱咤し、尚も戦い続けます。
八人、九人・・・

流石に疲れを感じ始めた頃、地鳴りと共に「小早川秀秋」の兵が、松尾山から
「大谷吉冶」の陣へ雪崩れ込んで行きました。


合戦が終わり、首実検を行なうと「笹の小枝」を銜えた首級は17あったと
伝わります。

この話が、総大将・家康侯にも伝わり、大層感服され大いに賞賛されました。
そして、福島正則は、新たに500石の加増を与え、才蔵は晴れて、1250石、
いわゆる千石取りの武将となり歴史に名を残したのであります。

その加増された分は、部下の小物たちに惜しみなく、日頃の働きに応じて
分け与えたとも伝わります。

主人・正則もこの戦の働きにより、安芸国広島藩に加増移封されると、才蔵も
当然の事それに従って広島に移り住み、次なる戦に備え、日々、馬に乗り、
槍の稽古を怠ることなく過ごし、一方では、自宅の庭先で野菜を作ったり、
味噌を作り、近所に配ってあげたりして過したと伝わります。

そして、大阪冬の陣に参戦することなく、慶長18年の夏、この世を去ります。

才蔵の亡骸は、遺言により広島の矢賀の坂の脇に葬られ、
「尾州羽栗郡の住人可児才蔵吉長」と刻んだ石塔が建てられたといいます。

福島正則家中の武者は、この石塔の前を通る時は、一旦下馬し、頭を下げるのが、
常となっており、上役の者でさえ駕籠を停めたと伝わります。

今は、広島市東区東山町の「才蔵寺」にて弔われており、
今尚、墓前の花が絶える事はないという。