「可児才蔵 吉長」その名が、時の勝者「徳川家康侯」にまで、
届いたとされる出来事があります。

天下分け目と言われる「関が原の合戦」の時でございます。


才蔵が「福島正則」に仕官して14年の歳月が流れておりました。
その間、九州遠征、後北条家討伐、2度に渡る朝鮮出兵と参戦し、
「笹の才蔵」「槍の才蔵」の通り名に恥じぬ働きをしてきました。

秀吉が、慶長3年(1598年)8月18日に死去しますと、
豊臣家臣の大名は分裂の様相を呈し始めます。
結果的には、豊臣家臣内に元々あった「武断派」と「文治派」の対立を
「家康侯」が利して、政権の頂に上り詰める事になります。


慶長5年9月15日(1600年10月21日)未明、
美濃国関ヶ原(現岐阜県不破郡関ケ原町)は、前日から降っていた雨は上がったが、
深い霧に包まれており敵味方どの様な状況にあるのかさえ分からない有り様です。

戦場独特の異様な緊張状態の中、双方とも静まり返っております。
時折、馬のいななきだけが、どこからともなく聞こえて来きて、
より緊張感を高めます。

東軍の大将・家康侯から「先鋒」を言い渡された「福島正則軍」は、
空が明るくなるのを静かに待ち続けておりました。
才蔵は自ら申し出て、正則軍の先鋒隊を指揮しており、文字通り、この戦の
最先鋒におりました。

少しずつ朝霧が、薄くなってきた時です。
才蔵の後方から複数の馬蹄の音が聞こえてきました。
その音は、正に才蔵の横を通り抜け、前方すなわち敵陣へと向かっております。

才蔵は、不審に思い馬首を音の方に向け、慎重であるが素早く馬を向かわせます。
すると霧の向うに真っ赤な装束の武者一団が、進んでいるのが見えてきます。
[なにゆゑ、軍監である井伊直政の家の者どもが先鋒に]
と疑問に思った才蔵は、その一団の前面に馬を入れ、進路を塞ぐようにし、槍の
穂先をピタリと先頭の者の喉につけます。

「何者ぞ」「ここを福島左衛門大夫の陣と知ってのことか」と誰何します。

才蔵は、赤備えの一団の中に、兜のとりわけ長大な金の天衝きの前立てを見て、
「軍監・井伊直政」である事を見て取り、
直政は、霧の中から現れ馬前にて誰何する武者の指し物が「笹」である事を見、
「笹の才蔵」である事に気が付きます。

才蔵は、尚も「名乗らぬか、無礼者」と続けます。
これに対し、直政は「味方であるぞ、槍を引け」と
後ろめたさがあるので、やや穏やかに返します。

才蔵は、すばやく槍先を直政に向けると再び「何者か」と誰何します。
これには、流石の直政も「(井伊)兵部少輔」と名乗ります。

「井伊殿が先鋒に何用でござるか、我が殿・福島左衛門大夫は総大将・家康様より
 先鋒を承ってござる。よもやご法度破りではござるまいな」
 
と、才蔵は凄みを利かせます。

[無礼者]と一喝したい直政ではあるが、誰もが知っている「抜け駆けはご法度」を
破ろうとしているのは自身であり、事を荒立て大事になれば、この抜け駆けが表面
化し、恥辱となってしまう。直政は、ぐっと堪え、
「物見である。松平下野守様、ご初陣にて我らはその後見である」
「下野守様、御物見である。道を開け」と返します。

[己は良いが、この場で槍を収めなければ主人・正則の首も飛びかねない]と
才蔵は、怒りで震える槍の穂先を下ろします。
赤備えの一団は、その才蔵を避けるようにし横を進んで行きました。

その姿を見送ると才蔵は、この一件を正則に報告に行き、仔細を申し上げ
始めると、ほぼ同時に辺りに銃声が響き渡ります。

正則の「抜け駆けか」という怒号と才蔵の「おのれ」という声が混じり合い、
「馬引け」「鉄砲隊」「突っ込め」と矢継ぎ早に命令が飛び交います。


井伊直政の一団はしばらく進むと、敵対する陣の方向に向け発砲したのであります。
この銃撃を受けた西軍「宇喜多」勢も応戦し始めました。

ここに「関が原の合戦」が始まりました。

                               (つづく)