戦国期から江戸初期にかけての武将「可児才蔵 吉長」は、
「三好信吉(羽柴秀次)」のもとを去った後「佐々成政」「前田利家」に
仕官したとも伝わります。

この頃になりますと「笹の才蔵」を抱える方も、家臣というよりは、一人の
名だたる武者として、戦場での活躍を期待しての召抱えだったのかも知れません。


才蔵は「前田利家」の下を去った後、「愛宕さまに参拝するか」と
再び京に上り、居を構え、新たな仕官先を探しておりました。

そんな折、才蔵の屋敷に一人の兵法者が、訪ねて来て、勝負を所望いたします。
快くこれを受けた才蔵は、場所を近くの「空き地にて待て」と申し付けます。

四半刻ほど経って現れた才蔵は、甲冑で身を固め、背には笹の指し物、そして、
鉄砲を持たせた小者を数人従えておりました。

兵法者が「尋常なる立ち合いを所望致したく」と言うと、
才蔵は「勝負といえば、これ以外知らん」と言うや否や槍の穂先を兵法者の
喉元に突きつけました。
兵法者は「参りました」としか言う事が出来なかったと伝わります。


才蔵が、利家の所を致士したという噂は、城持ちの大名にまで届くように
なっておりました。

そして、才蔵は最期にして最高の仕官先「福島正則」に仕える事になります。

才蔵の噂を聞いた正則は、「是非会ってみたいと」才蔵を呼び出します。
「福島正則」といえば、賤ヶ岳の戦の時、一番槍・一番首として敵将・拝郷家嘉を
討ち取るという大功を立て5,000石を与えられた「賤ヶ岳の七本槍」の一人です。
秀吉の小姓上がりとはいえ、自らも槍にて武功を立て大名になったので、
才蔵に興味が湧いたのかもしれません。

初目通りのその場で750石の知行で召抱えられた才蔵は、
秀吉の九州遠征に肥後表三番隊の福島正則に従い参加します。
しかし、総勢20万をも越えると伝わる戦ですので、先鋒にでも
指名されない限り、目立った活躍は出来ません。
才蔵の活躍する機会もありませんでした。

九州を平定した秀吉に残るは、関東、奥羽の平定です。
各地の大名が次々に秀吉に下る中、関東の後北条家・当主「氏直」にも上洛を
申し付けます。
しかし、氏直は叔父である氏規を上洛させ、当主の上洛に「上野の国・沼田領」を
要求します。一方で、秀吉との戦準備に入ります。

秀吉は、沼田領の件につき「3分の2を後北条に残りを元の領主・真田に残す」と
いう裁定を下します。
一旦はその裁定に従った北条氏直でしたが、すぐに背き、真田に攻め入ります。

自身の裁量に背いた北条に対し、秀吉は実力を行使する事になります。
北条氏直の居城は、信玄にも謙信にも攻め落とせなかった小田原城です。
氏直とすれば「来るなら来て見ろ」と更に戦の準備を進めます。

関東の北条攻めには、秀吉配下の大名が、九州遠征(島津討伐)の際の20万の兵
を上回る21万超の兵が集まったとも伝わっております。

福島正則隊は、主力として東海道を下り、北条氏規が守備する「韮山城」の攻めに
筒井、生駒、蜂須賀、戸田らと共に中軍として攻撃を開始しました。

「韮山城」は、後北条家初代早雲が、家督を二代目氏綱に小田原城を与えたあと
自らの本城とした城であります。
当然、その作りは堅牢であり、この戦への備えも万全でありました。

才蔵は、福島隊の先鋒となり城に取り付きます。
今度こそ、殿のお役に立ちたいとの思いが、「我先に」となり、幾度となく
先陣をきり攻め入り、幾つかの首級を上げますが、次第に城外の兵も
城内に引き上げ、戦闘は小康状態になります。
そんな折、秀吉本隊が攻めた山中城が、落ちた事により、
「韮山城」攻撃隊は包囲の兵を残し、本城「小田原城」の包囲に向かうことと
なりました。攻め手の約1/10 3600の兵で守る韮山城は、その後100日余
持ち応え、氏規は、予てからの知人、家康の説得を受け入れ開城いたします。

程なく石垣山一夜城が完成し、後北条側からの離反も相次ぎ、その結果、
小田原城も開城いたしました。
これにより、秀吉は関東を平定、その足で宇都宮に入り、関東、奥羽の諸大名の
所領措置を申し渡し、天下の統一を果しました。

才蔵も殿様・正則からお褒めの言葉を頂戴したと伝わります。