今から68年前の本日、昭和20年(1945年)8月14日、大日本帝國政府は、
米英支国共同宣言いわゆる「ポツダム宣言」の受諾を駐スイス日本公使館経由で
連合国側に通告。ここに大東亜戦争(第二次世界大戦・太平洋戦線)は、
終結(正確には休戦)され、我らの祖国・日本の敗戦が決まりました。
この共同宣言は、米国トルーマン大統領、英国チャーチル首相、支那(中華民国)
蒋介石国民政府主席が、ナチス・ドイツの降伏後にベルリン郊外ポツダムにおいて
会談を行い発表されたものであります。しかし、宣言文の大部分は米国によって
作成され、英国が若干の修正を行ったものであり、中華民国を含む他の連合国は
内容に関与していないといわれております。
この英国が行なった修正案は、
*対象を「日本国民」から「日本国・日本政府」に変更すること
*民主化の主体を「日本政府」と明記すること
*占領の対象を「日本領土」から「日本領土の諸地点」に変更すること
の三点であります。
8月9日にソ連(蘇国・現露国)が「日ソ中立条約」を一方的に破棄し、満州国、
朝鮮半島北部、南樺太への侵攻を開始(ソ連対日参戦)し、ポツダム宣言に参加、
後から追認した形になっております。
これを受け日本政府側は宣言の存在を論評なしに公表。が、翌日の新聞報道では、
読売新聞「笑止、対日降伏条件」
毎日新聞「笑止! 米英蒋、共同宣言自惚れを撃破せん、聖戦飽くまで完遂」
「白昼夢 錯覚を露呈」
と、戦前の新聞社体質そのもの、いわゆる「徹底抗戦」論ばかりでありました。
そして、鈴木貫太郎閣下(総理大臣)は、徹底抗戦派(参謀総長、陸軍大臣、軍令部
総長)の強い提案(恫喝)に遭い、海軍大臣の「政府がポツダム宣言を無視すると
いう声明を出してはどうか」という提案に乗り、
記者の「政府はポツダム宣言を受諾するのか」という質問に対して鈴木閣下は、
「ノーコメント」と回答。
しかし、翌日の毎日新聞他は、「政府は黙殺」などと報道された。
この[黙殺]報道記事の「黙殺」を
同盟通信社は「ignore it entirely(全面的に無視)」と翻訳し、
ロイターとAP通信では「reject(拒否)」と訳され、世界に向けて報道されました。
今も昔も新聞社の捏造と言っても過言ではない報道体質は変わりませんね。
8月9日夜に開かれた昭和天皇ご臨席での最高戦争指導会議(御前会議)では、
ポツダム宣言即時受諾を主張する外相・東郷茂徳の1条件付受諾説(海相と枢密院
議長が同意)と、本土決戦を主張する陸相・阿南惟幾の4条件付受諾説(陸軍参謀
総長と海軍軍令部総長が同意)とで激論が交わされ、対立し結論は出せなかった。
阿南陸相、梅津参謀総長は、本気で和平(ポツダム宣言受諾)に反対していたの
ではなく、陸軍内にある不満分子を爆発させない為に「抗戦すべし」と主張し
続けた事が、後に明かになっております。
本来、3対3になった場合は、総理大臣の意見で決めるところだが、
鈴木閣下(総理)は、8月10日未明、起立の上「誠に以って畏多い極みで
ありますが、これより私が御前に出て、思召しを御伺いし、聖慮を以って
本会議の決定と致したいと存じます」と発言した。
このあたりは、鈴木閣下の才あるところである。この一言により初めて、
天皇陛下が、権限のある事が言える立場になるからであります。
そして、昭和天皇は涙ながらに、
「朕の意見は、先ほどから外務大臣の申しているところに同意である」と
即時受諾案に賛意を示されました。
「御聖断」が、下されたのであります。
これを受け、ポツダム宣言には「天皇統治の大権を変更する」要求が含まれて
いないという了解の元、ポツダム宣言を受諾するという回答が決定され、午前
三時からの閣議で正式に承認されたのであります。
そして、その旨スウェーデンとスイスに向けて送信されました。
米国側より「日本の政体は日本国民が自由に表明する意思のもとに決定される」
「降伏の時より、天皇及び日本国政府の国家統治の権限は降伏条項の実施の為
其の必要と認むる処置を執る連合軍最高司令官に属する」と返信があり、
鈴木閣下(首相)は、再度確認を致します。
13日になり「日本側の申し入れを受け入れたものである」という報告が到着。
14日に改めて御前会議を開き「御聖断」を仰ぎます。昭和天皇は、
「朕は、国民を信じる。これ以上、国民を苦しめるのは忍びない」
と再度「御聖断」が下され、宣言受諾が決定。
「終戦の詔勅」が、発せられます。
この「御聖断」により、我らの祖国・日本は、
「本土決戦」「分断統治」などの連合国が行なおうとしていた
国家存亡の危機を回避する事が出来たのであります。