慶長18年6月24日(1613年8月10日)
安芸国広島城下にある武家屋敷で、槍を手に持ち床机に腰掛けた老人が、
静かに息を引き取りました。享年60歳と伝わります。

予てから「ワシは愛宕さまの縁日の日に死ぬ」と申していた通り、
赤子神社、毎月の縁日(24日)でありました。

名を「可児才蔵 吉長」と申します。


「可児吉長」は、知る人ぞ知る戦国期の武将であります。

天文23年(1554年)、美濃国(現岐阜県)可児郡で生まれ、
元服するとすぐに「斎藤龍興」に仕えます。

その「龍興」が、信長に攻められた際(稲葉山城の戦い)、初めての首級を
一つ上げる事になりましたが、己の戦い振りに満足できず美濃を離れ、
槍の修行に出ます。

たどり着いた修行先が「宝蔵院流槍術」の宗家、奈良の興福寺子院の
「宝蔵院」であります。
そこで、三日月の槍(十文字槍)を開発した初代胤栄に教えを請い、
槍術と薙刀術を学びます。
(あの宮本武蔵もここに試合に行きましたね)

体躯と素質を兼ね備えた「才蔵」は、ここでメキメキと腕を上げていきます。
そして、納得がいくと仕官先を求め再び旅に出ます。

「柴田勝家」配下に仕官が決まるも、これという戦(いくさ)もなく致士し、
次に坂本城主「明智光秀」に仕えることになります。

そして、信長の紀州雑賀攻めに参陣いたします。
天正の時代に入り、武者たちの「兜」やその「前立て」背中につける「指し物」も
日を追って大きく派手になっており、少しでも目立ち、戦場の働きを上役に
見止めて貰おうと、個々に工夫を凝らしておりました。

この指し物、大きく目立つ事は重要ですが、戦場を駆け回るので、軽くて丈夫、
それでいて、何かに引っかかった際を考え、しなやかである事が重要あります。
騎乗の武者などは、この指し物が木などに引っかかり落馬などしたら一大事です。
なので、丈夫である事には多少目をつむり、和紙や薄く剥いだ木などを使い、
作られました。

その中、才蔵の指し物は、自らが切ったままの笹竹でありました。
これが大変、理に適っているのはお分かりになるだろう。
軽くて丈夫でしなやか、笹竹はこの条件を全て備えています。
そして、笹竹でしたらどこの山にもありますので、いつでも取り替える事も
出来るのです。

その後も「光秀」に従い、片岡城、信貴山城、篠山城、籾井城・・と戦に出ます。
戦に出る度に才蔵の上げる首の数は増えていきます。
一つや二つなら袋に入れ腰に括ることも出来ますが、三つ四つともなりますと、
そうはいきません。才蔵も他の猛将に習い、討ち取った敵将に自分の印をつけ
次の敵に向かうようになります。
才蔵の場合は、背中にある笹の指し物から小枝を取り、首の口を開け、
噛ませる様になります。

この頃より、敵味方の誰ともなしに才蔵の事を「笹の才蔵」と呼ぶようになった
そうであります。

明智光秀が、山崎の戦で敗れ敗走の後に討たれると織田信孝に仕官いたします。
当時の城持ちではない武者は、よく仕官先を変えることがあり、才蔵も自分の
気に入った殿様を求めていたのでしょう。
下士はもちろんの事、小者に至るまで、生涯一人の殿様に仕えるようになったのは、
江戸期も安定してからです。
一説によると、山崎の戦での才蔵の働きを気に入った信孝が「是非、家来に」と
誘ったとも伝わります。

この頃になりますと、戦場で「笹の才蔵」の事を知らない者は居ないとまで、
言われる程になっており、織田信孝が羽柴秀吉に負け自刃すると、秀吉の甥に
あたる「三好信吉(羽柴秀次)」に仕える事となります。

才蔵は、武運には恵まれていたのかもしれませんが主家には恵まれませんでした。

次の仕官先とした三好信吉は、小牧・長久手の戦にて「中入り」のため三河国への
別働奇襲隊を総指揮し、本陣・岡崎城を目指すが「家康」の奇襲に遭い、
命からがら敗走いたします。

その敗走の際、信吉(秀次)は騎乗する事なく、兜持ちも居らず、馬標もなく、
そして、「三好信吉」を「三好信吉」と知らしめる陣羽織も脱ぎ捨て逃げたとも
伝わっております。

御味方総崩れの戦場から退却してきた才蔵は、その信吉に出くわします。
当然、信吉は「馬をよこせと」と言いますが、才蔵は、
「雨の日の傘にて 御免」と言って、その前を通り過ぎます。

また、違う説ですと、信吉に出会った才蔵は下馬し近づくと、
「供の者はどうなさった。また、その身はいいかが致した」
と質すと、信吉は放心状態のまま、
「知らぬ」と申すのみであったという。
あまりにの不甲斐無さに才蔵は、
「意識無く兜も鎧も脱ぎ捨てたのか」
と激昂し、その場を立ち去ったとも伝わります。

敵の目をはばかり、総大将としての印を全て捨て去った「主人」は、
もはや才蔵にとっては、主人ではなかったのかもしれません。