昭和20年(1945年)8月9日午前11時02分(投下時刻10:58)
事も有ろうに米国は、広島に続いて長崎にも無差別大量殺傷兵器「原爆」を
投下しました。広島に投下された原子爆弾の約1.5倍の威力の原子爆弾です。
この爆弾で、当時の長崎市の人口24万人のうち約15万人が死没いたしました。
実に人口の6割強でございます。
この日から遡る事約3年、昭和17年(1942年)6月、時の米国大統領ルーズベルト
は「マンハッタン計画」を秘密裏に開始させます。
マンハッタン計画とは、米国、英国、英連邦加国が原子爆弾開発・製造のために、
科学者、技術者を総動員した計画である。
この計画が成功した事により原子爆弾が製造され、広島・長崎に投下され、合計
数十万人が犠牲になったのであります。
昭和19年(1944年)9月18日、ルーズベルト米国大統領とチャーチル英国首相は、
首脳会談を行い、核に関する秘密協定(ハイドパーク協定)を結び、核開発に関する
米英の協力と将来の核管理についての合意がなされました。
同時に「日本への原子爆弾投下」が示されたのであります。
ルーズベルトは、平行して原子爆弾投下の実行部隊の編成を指示し、部隊は原子
爆弾投下の秘密訓練を開始します。
昭和20年(1945年)2月には原子爆弾投下機の基地はテニアン島に決定され、
部隊は同年5月18日にテニアン島に移動しました。
どの国にも良識を持ち権力者に対しても恐れず発言する方々はおります。
核分裂の理論を学会で発表した理論物理学者ニールス・ボーア氏は、原子力研究が
平和利用ではなく、原子爆弾として開発が進められていることを知り、原子爆弾
による世界の不安定化を怖れ、これ以後ソ連も含めた原子力国際管理協定の
必要性を米英の指導者に訴えます。
ボーア氏は、米英指導者に会談し説得を試みるが失敗におわります。
逆に米英の「ハイドパーク協定」では、ボーア氏の活動監視とソ連との接触阻止が
盛り込まれる結果となります。さらに、ルーズベルト死後の科学行政官に対しても
説得を試みますが、彼の声が時の政権へ届くことはありませんでした。
また、シカゴ大学冶金研究所が発足させた「ジェフリーズ委員会」からも
原子爆弾として都市破壊を行うことを目的とすべきではないと提言されます。
これらを含む複数の提言で、ルーズベルトは日本に対して実際に原爆を投下する事
には、慎重な対応を考えておりました。
しかし、ルーズベルトが急死したことによって政権を引き継いだ「トルーマン」は、
異なりました。
トルーマン政権に対しても、核開発を進言したその人であるレオ・シラードは、
原子爆弾使用の反対を訴え、シカゴ大学のジェイムス・フランク氏は、科学者7名
と共に作成、大統領諮問委員会に提出した「フランクレポート」にて、
社会倫理的に都市への原子爆弾投下に反対、砂漠か無人島でその威力を各国に
デモンストレーションすることにより戦争終結の目的が果たせると提案した。
軍人でも、「アイゼンハワー将軍」が、対日戦にもはや原子爆弾の使用は不要
であるとし、トルーマン大統領に直言しており、アメリカ太平洋艦隊司令長官
「チェスター・ニミッツ提督」も、都市への投下には消極的でロタ島への爆撃を
示唆している。
また政府側近でも、「ラルフ・バード」は、原子爆弾を使用するとしても事前警告
無しに投下することには反対と表明していた。
しかし、トルーマン米国大統領は、日本への原子爆弾投下を命令したのです。
なにゆゑ、トルーマンは、原爆を使用したのだろうか。
2発の異なる原子爆弾、広島には「ウラン型」長崎には「プルトニュウム型」が、
使用されたという事実があります。
また、米国最大の「ロスアラモス国立研究所」に保管されている原爆に関する
公文書によると、
一回目・ニューメキシコ州での核実験(トリニティ実験)
二回目・広島に投下したウラン235を原料とした原爆
三回目・長崎に投下したプルトニュウム239を原材料とした原爆
それぞれが、「実験」という項目に分類されて、被害の全てが記録されています。