[日清戦争②~親日開化派の消滅と欧州各帝国の思惑~のつづき]


英国が近づいてきたと判断した日本は、朝鮮の混乱に乗じて、英国に対しての
凄腕外交を行ないます。その時に交渉にあたったのが、
元士族で外務大臣の「陸奥宗光」という御仁です。

陸奥は、英国に対し、
「これから清国と戦争になるかも知れません。我々は国際法を守り、
清国内の英国居留民の生命や財産、利権を守るつもりであります。
だから日本を文明国と認めて、現在の条約を改正をして頂きたい。
もし日本国を文明国として認めないのなら、我々は文明の法を守る必要はなくなる。
よって、居留民たちがどうなるかは分からない」
と巧みな交渉をします。
(今の日本にもこの位の交渉が出来る人は欲しいですね)

これにより、幕末期に締結させられた不平等条約の撤廃をさせ、新たに、
「日英通商航海条約」を締結させます。
これが、後の「日英同盟」に繋がっていくのです。


朝鮮を取り巻く情勢は、日本、清に露、英まで加わっての微妙な均衡の上に
各国の思惑が交差する中、当の朝鮮では日本の経済進出により産業が生み出され、
日本人に指導を受けた企業は飛躍的に成長していました。

10年も経たずに日本との貿易は、輸出の90%以上、輸入の50%を占めました。
この対日貿易黒字により成長を遂げた朝鮮ですが、この成長で、益々贅沢をして
いた「閔妃」は、新しく登場した露国に豆満江自由航行権や鉱山採掘権、
朝鮮北部の森林伐採権などを次々に売り渡してして、もっと財を得ようとします。
そして、露国は、租借地まで手に入れています。
(士族・西郷隆盛が語った「いづれロシアは満洲朝鮮半島を経て日本に迫って来る。
これこそ第二の元寇であり、日本にとっては生死の問題になる」が、現実となって
しまいます)

経済成長に伴い、朝鮮国内のインフレが加速し始めますが、閔氏やその一族の
高官たちは何の手当てもせず、相変わらずの搾取に明け暮れておりました。
当然、朝鮮庶民の生活は困難を極めます。

この様な状態で、農民の不平不満は爆発し、各地で反乱が起き始めます。
その農民の反乱を「東学党(単純な教理で下層の人々に広がった宗教組織)」の
2代目教祖「全ボン準」という元下層役人が、教団の組織力を上手く使い、
個別の反乱を全国的に広げて行きます。

明治27年(1894年)5月、反乱は、全国規模になりました。
後に言う、第一次甲午農民戦争(東学農民革命)であります。

6月1日、この反乱の収拾に困った朝鮮(閔氏)は、清国に助けを求めます。
これを受けた清国は、陸兵2,400人を出兵させ、
同月5日、朝鮮国仁川沖に到着
同月6日、清国は、明治18年に日本と結んだ「天津条約」により、日本に通告。
(上陸目の前にしての通告です。卑怯ですね)
翌日より上陸行動を開始します。
そして、2週間後には更に400人を増派します。

一方、日本国は、
6月7日に清国の出兵通知を受けるとすぐに派兵を開始します。
同月10日に邦人保護の為の部隊(海軍陸戦隊・警察官)が、首都漢城に入ります。
その数わずか430人であります。
(明治17年12月に日本人が受けた惨殺を忘れてはいませんでした)
清国軍の数の情報を得た日本は、1週間後に約4,000人を追加投入します。

結果、日本軍と清軍が、首都漢城付近で対峙する事になりました。

この状況に危機感を覚えた朝鮮(閔氏)は、農民の提案を受け入れ、事態の
表面的な収拾を図ります。

これの事により、反乱は収束したとした日本は、清国に対し「朝鮮の独立援助と
内政改革を共同でおこなうこと」を提案し、同時に英国も調停案を出します。
しかし、清国の返答は「日本(のみ)の撤兵が条件」として拒否します。

そして、清国は増援部隊2,300人を急派することとしました。
この部隊派兵が、豊島沖の開戦の発端となります。

その時の当事国・朝鮮はというと、何と【日清戦争①】に登場した二代派閥の
一つ、大院君がクーデターを起こして「閔氏政権」を追放し、「金弘集政権」を
誕生させたのであります。
(本当にこの朝鮮という国は、無茶苦茶です)

その「金弘集政権」は、日本に対して清軍の掃討を依頼してきます。
(こうなるともうお家芸です。さて朝鮮は、ここまで何回頼る国を変えたでしょう)

                                (つづく)