明治27年(1894年)8月1日、日本国と清国は互いに宣戦布告を行い、国際法上の
戦争状態に入りました。

しかし、そこまでには多くの要因があり、宣戦布告によって、その日から戦争が
始まるモノではないのは、先の大戦・大東亜戦争に至るまで同様な事であります。


1890年当時の李氏朝鮮は清国の属国(冊法体制)であり、民衆の暮らしは、
貧困のどん底でした。
政治をつかさどるべき「高宗国王」は、政務をほったらかしにして、酒池肉林の
毎日。その為、皇后の「閔氏一族」が実権を握ります。
そして、「閔妃(国王の嫁/事大党)」と「興宣大院君(国王の父)」の二大勢力が
出来上がり、お互いの利権や財を争い、文字どうりの血で血を洗う死闘を
繰り広げておりました。

少し広い視野で世界を見ると、欧州での国家間パワーバランスは、
独国の「ビスマルク」が曲芸の如くまとめた
三帝同盟(独墺露同盟)、三国同盟(独墺伊同盟)、地中海協定(英墺伊同盟)で
維持されていました。
しかし、独国の新しい皇帝が、ビスマルクを解任し三帝同盟を破棄。
これにより、再びバランスが取れなくなっておりました。
(このビスマルクが成し得たバランスおかげで、日本は時間が出来て近代化が
進められたとも考えられます)

そして、露国は新たに露仏同盟を締結します。
自らの失政で、このバランスの崩壊させた独国は、露国と仏国に挟まれた形になり、
慌てて、露国の目を東方に向けさせる様に仕向けます。
(露国による露国帝国を軸にした安定化案)
これにより、露国は南下政策を始められることになります。


明治15年(1882年)7月「壬午事変」勃発

この時の「閔妃」は、近代化が必要とし、積極的に日本に働きかけをして、
自身に付く軍人や文人などを優遇します。
その処遇に不満をいだく軍人たちによる暴動が首都漢城で起り、開国、近代化に
否定的な大院君らの思惑も重なり、日本公使館が焼き討ちにあい、日本人の
軍事顧問、公使や商人たち、その家族たちが、無残な殺され方で殺害されます。
(それまで、近代化の為に援助をしていた日本に対して、この仕打ちです)

この事変の発生を受け、日清両国が朝鮮に出兵しました。その結果、
日本は、居留民の保護と暴挙の責任追及をし通商規則を要求し、
「済物浦条約」が締結されます。またこの様な事が起きないようにと
日本公使館警備兵員の駐留などが決められました。

一方、清国はこの時に派兵した3,000人をそのまま駐留させるとともに
朝鮮の内政に干渉し始めます。
[朝鮮は清の属国、朝鮮国王と清の北洋通商大臣とが同格、外国人の中で清国人
だけが領事裁判権と貿易特権を得る等。朝鮮に清国人の居留地が設けたり、
清が朝鮮の電信を管理した]

明治17年(1884年)12月「甲申政変」勃発

興宣大院君が清へ連れ去られた事により、実権を握った、閔妃をはじめとする
閔氏一族は、清国の内政干渉に屈して、親日派政策から清国への「事大政策」へ
と方向転換していきました。
事大政策とは、大に事(つか)えるという考えと行動を表す語で、李朝末期には
政変が起きるたびに、清、露、日本、米などさまざまな国に事大先を変え、
国内の統一が取れなくなっていました。
(最近の大韓民国(南朝鮮/韓国)も同じ様な事をしてますね)

この様な事を案じた開化派(独立党)の「金玉均・朴泳孝・徐載弼」たちは、
一足先に近代化を成し得た隣国・日本に目を向け、日本と同じ様な
「立憲君主制国家」の樹立をする為に「福澤諭吉」や「後藤象二郎」などの
日本の政財界の代表者達に接触し、国内では、外戚の閔氏一族や清に実権を
握られて何一つ思い通りにいかない高宗国王を抱き込みます。
そして、クーデターを起こし、実権を握る画策を致します。

そのクーデター案は、
・12月に開催が予定されていた「郵征局(郵政関連中央官庁)」の開庁祝賀会時に
 各所で放火を行い、混乱の中で高官を倒し守旧派を一掃する。
・朝鮮国王(高宗)はクーデター発生を名目に日本に保護を依頼。
・日本は公使館警備用の軍を派遣して朝鮮国王を保護し、その後「開化派」が
 新政権を発足させ、朝鮮国王をトップとする立憲君主制国家を建立し、
 日本の助力の元に近代国家への道を進める、というものだった。
(これって、幕末の京で長州藩が計画した事に類似してませんか)

                                  (つづく)