[誠の侍たち・其ノ七~御用改めである~のつづき]
「御用改めである」
そう言って、屋内に入った近藤に、沖田、永倉、藤堂が続きます。
無論、入口付近は、後衛の3人が固めております。
慌てて出て来た池田屋主人「入江(池田屋)惣兵衛」は、近藤らを見ると身を返し、
「奥階段」に駆け寄り、階上に向かいて、
「宿改めにてございます」と伝たえます。
その動きを見て取った近藤は、惣兵衛を殴り飛ばすように押しのけると同時に
刀を抜き放つと奥階段を慎重かつ素早く上ります。
沖田もそれに続きます。
(新撰組は、その時の人数や状況(巡察時や家屋探索時など)に応じて、
配置が決まっていたと伝わります。市中見回り時の先頭を歩く者を「死番」
と読んでいたのは、有名な話です。そして、最小単位は2名1組になります)
この時も、近藤には沖田が続き、永倉と藤堂は土間に置いて、
近藤の行くえに注意しながらも、入ってすぐにある「表階段」と「一階」の
様子をうかがいます。
江戸の道場時代からの仲間4人ですから成せた事とも言えるでしょう。
これぞ、以心伝心です。
二階にて、会合を開いていた攘夷強行派の者たちは、
惣兵衛の声と階下の物音を聞き、何事かと思い襖を開け放ち、様子を見ます。
そこへ沖田を引きつれ二階に上がった近藤が現われ、
「御用改メデアル、無礼スマイゾ」
と静かではあるが、力強い声で申し付けます。
これに驚いた攘夷強行派の者たちは、刀に手をかけ反抗の意を表し、
ある者が、手元の器を投げつけてきました。
これに対し近藤は、大声で、
「手向イイタスニヲイテハ用捨無(ようしゃなく)切捨ル」と言い放った。
そして、階下にある釣り行灯の照らす薄明かりの中での乱闘が始まるのでした。
何人かの浪士は、近藤と沖田の気合もろ共繰り出される剣に恐れをなし、
ある者は裏庭へ、またある者は中庭へと飛び降り、
そして、表階段から階下へと逃走を図ります。
しかし、そこにも予め配置された新撰組隊士がおります。
藤堂は、中庭に飛び降りて来た浪士と合まみえ、
永倉は階段を使い降りて来て表口より逃走を図る浪士を袈裟掛けに斬り捨てます。
大半の浪士が階下へと逃走を図ったので、近藤は2階を沖田に任せ、
自らも階段を降り、追いかけます。
正に壮絶を極めた斬り合いの中、沖田は持病が悪化し喀血して戦線を離脱、
藤堂も鉢金が、ずれたところを斬りつけられ、額を負傷し戦闘不能になり、
永倉も親指の付け根を斬られながらの戦いであった。
(この屋内での様子は、永倉新八手記「浪士文久報國記事」に
記述されております)
そんな中、鴨川の東を探索していた「土方隊」が、池田屋に到着します。
土方は、すぐに分隊として想定していた「井上隊」を屋内に突入させ、
残りの隊士を浪士の逃走を阻止する為に池田屋周囲に配置します。
そして、自らは局長が屋内に居る為、突入はせず全体の指揮を取ります。
加勢の到着を確認した近藤は「手向かう者は斬り捨て」から「捕縛」に
方針を改め、これを下します。
一辰刻近くにも及ぶ、熾烈なこの戦いも終わる頃、
探索に諸事象で躊躇していた会津、桑名藩兵たちにもようやく命令が出て、
池田屋を中心に包囲の輪を縮めていきます。その数、数千とも伝わります。
この池田屋事件で、
自刃や獄死/刑死をあわせると倒幕・攘夷強行派の浪士側の死亡者は、
30名近くになり、捕縛者は、20数名にも及びました。
内、当日の新撰組の働きでは、打留8名(9名とも)、捕縛6名(4名とも)と
言われております。
一方、新撰組にも被害は出ました。
当初から裏口を固めていた、「奥沢栄助」が死亡
同じく「新田革佐衛門」「安藤早太郎」重症、その後死亡
「藤堂平助」が、額を斬られ重症
「沖田総司」は、肺病が悪化
日もすっかり昇り、盆地特有の暑さの中、京の町を歩く新撰組一同は、
大勢の見物人の中、堂々と隊列を組み引き上げていったと伝わります。
この働きにより、朝廷から金ス100両が下され、
会津侯からは「感状」と共に金ス500両、
また手負いの隊士には別段50両ずつ、
局長・近藤には、最上大業物「三善長道(通称:会津虎徹)」の刀一振を賜わった。
ついに、新撰組は、天下にその名を轟かせたのであります。