今から約150年前の元治元年6月5日(1864年7月8日)は、
「近藤 勇」率いる新撰組隊士が、旅籠・池田屋にて、長州藩・土佐藩などの
倒幕・攘夷強行派浪士の取り締まりを行い、功績をあげた日です。
世に言う「池田屋騒動」です。

近藤勇が、父・近藤周斎(周助)他5名に送った報告の文には、この出来事を
「洛陽動乱」と書いております。


事は、数日前に倒幕・攘夷強行派浪士「熊本藩・宮部鼎蔵」配下の小物を
捕らえたところから始まります。

この小物から宮部ら攘夷強行派の者たちが、頻繁に四条小橋西入ル(木屋町)にある
「薪炭商・桝屋喜右衛門」の屋敷に出入りしていることを聞き出した新撰組は、
喜右衛門の調査を開始し、結果、この桝屋喜右衛門が怪しいとの結論に至ります。

そして、6月5日(旧暦)の朝、明六ツ時過ぎに「薪炭商・桝屋喜右衛門」の
屋敷の探索を行ったのであります。

その時、屋敷内に不逞浪士の姿はありませんでしたが、大量の武器弾薬、
長州藩との書簡等が見つかり、ただちに主人・桝屋喜右衛門を捕らえ、
屯所に引っ立てました。

中々口を割らない喜右衛門でありましたが、副長・土方歳三にかかると
観念をしたのか、ようやく重い口を開き始めます。

その自白の内容によると
・桝屋喜右衛門は偽名で、実は古高俊太朗という近江の郷士であること
・来る祇園祭前の風のある日に御所の風上、京の町各所に火を放ち、
 その混乱に乗じて「(公武合体派)中川宮朝彦親王様、
(京都守護職/会津藩主)松平容保侯らを討ち取り、
 孝明天皇を長州へ連れ去る」というもの
・すでに計画実行のため、数十人の者が、京の町に隠れ住んでおり、
 近く、会合がある
という、恐るべき内容でありました。

土方は、すぐに会津藩に知らせを出すと共に、局長・近藤勇に報告し、
対策を練り始めます。


日も大きく西に傾いた七ツ下がり、新撰組隊士三十余名は、不逞浪士探索の為、
相手に悟られぬよう、数名ずつに別れ壬生の屯所を出て行きます。
集合場所は祇園町にある会所、そこで、会津藩士・桑名藩士と合流し、
京の町を探索する申し合わせでした。

しかし、申し合わせの刻限・夜五ツ(戌の刻)になっても会津、桑名の兵は、
姿を現しません。
一刻を争う事態が進行中という事で、近藤局長は新撰組隊士だけでの探索を
始める事とし、予め定めていた通りに隊を二手に分け出立致します。

局長・近藤が自ら率いる隊は総勢10名。
その中には、天才剣士と言われた「沖田総司(壱番組々長)」
その沖田より少し稽古が進んでいたと伝わる「永倉新八(弐番組々長/撃剣師範)」
剣術の他、種田流槍術も使い手「谷万太郎(壱番組伍長)」
江戸からの仲間「藤堂平助(四番組々長)」が、おりました。

一方、副長・土方の隊は24名。
新撰組剣客三本指「斉藤一(副長助勤参番(六番)組々長)」
谷万太郎より免許皆伝された「原田佐之助(伍番(拾番)組々長)」
神明流剣術の指南役「谷三十郎(八番(七番)組々長)」
身の丈6尺はある怪力の持ち主「島田魁(弐番組伍長)」
などなど。そして、
近藤・土方がもっとも信頼出来る人物、同郷の「井上源三郎(参番組々長)」が、
おりました。

一見するとバランスの欠いたような人数配分であるが、実は良く考えられた上での
配分であります。

土方隊が、担当した鴨川の東は、探索地域が広く、花街である祇園があり、祭りの
夜ともあり、相当な人が繰り出している。当然、探索は困難が予想されます。
その為、状況に応じて、隊を2分させる事も考慮したのでしょう。
その際に分隊を率いるのが「井上源三郎」です。


夜四ツ(亥の刻)、各所の探索を続けていた近藤隊は、鴨川の西を流れる高瀬川に
架かった三条小橋の西側にある「池田屋(三条小橋西入ル)」に到着しました。

これまで何度と繰り返した旅籠、料理屋等の探索手順通り役割に付きます。
探索・討ち入りに4名(近藤、沖田、永倉、藤堂)
表口及び近藤たちの後衛に3名(谷、武田、浅野)
裏口に3名((奥沢、安藤、新田)


「御用改めである」

そう言いながら、近藤 勇は屋内へと踏み入って行きました。

                                 (つづく)