昭和20年、敗戦により主権がない時に、連合国(米国)に押し付けられ、
無理やり憲法改正をさせられて出来たのが、現憲法だ。
米国草案が「公職追放」後に承認、施行された事は周知の事実だ。

今では、その「連合国軍総司令部(GHQ)」が、共産主義者(コミンテルン)に
毒されていた事が、米英の情報機関が作成した「ベノナファイル」などによって
明らかになっている。
日米開戦の原因の一つになった「ハルノート」を作ったのも米政府内に
入り込んだ共産主義者(コミンテルン)だったことも同様に明らかになっている。

一説によれば、20万人以上が対象になった「公職追放」により、
特に啓蒙を担う業界に、
(教育機関(日教組)やマスコミ、言論界、東大教授を筆頭にする学会など)
いわゆる「左派」勢力や共産主義者が、
大幅に伸長した事も事実として忘れてはならない。

その様な敗戦後体制の中では、世界の常識である「祖国を愛する事」は、
「悪」とされる教育が、公然と行われてきた。

そして、今尚その体制の中に居るのは明らかだ。
平成20年の第29代航空幕僚長・田母神氏が退官に追い込まれたのも
現代の「公職追放」と言ってよいだろう。

しかし、最近は少しずつだが、まともな方向へ向かっている様な気がする。


以下、埼玉大学名誉教授・長谷川三千子氏の産経新聞「正論」に記載された
「国民の憲法」考である。
(少々長いが、全文を転写します。)

*教科書が語らない「制定」の真実

 わが国では戦後ながらく、憲法についての思考停止状態がつづいてきました。
昨今はそれが少し解消したかのようにも見えますが、基本的な点では、ほとんど
何も変わっていません。産経新聞が新しい憲法案「国民の憲法」要綱を
発表しましたが、いくらよい憲法案を作っても、この思考停止が解けない限り、
本当の「国民の憲法」は実現しないでしょう。
それを解決するのには、何よりも大切なのが正しい憲法教育なのですが、
現状はいささかお粗末と言わざるを得ません。

《素通りの「誰が作ったか」》

 昨年たまたま、或る出版社のご好意によって、その年出版された中学公民の
教科書をいくつか見る機会がありました。いずれもきれいな写真が沢山のった
観光パンフレットと見紛うような美装本で、かつての社会科教科書とは様変わり
していましたが、その中身は、ほとんどいずれも、敗戦直後の中学教科書
『あたらしい憲法のはなし』を一歩も出ていない。
むしろ或る意味で思考停止ぶりが深まっているとすら言えるのです。

かつて『あたらしい憲法のはなし』は、日本国憲法の成立についてこんなことを
語っていました。

「これまであった憲法は、明治二十二年にできたもので、これは明治天皇が
おつくりになって、国民にあたえられたものです。
しかし、こんどのあたらしい憲法は、日本国民がじぶんでつくったもので、
日本国民ぜんたいの意見で、自由につくられたものであります」

もちろんこれは大ウソです。
新憲法は「日本国民が自分でつくった」ものではなく、占領者の作った草案を
日本人が「自由に」修正することも許されなかった。
しかし昭和22年、占領下の日本にはそのことについて
ウソをつかない自由すらなかったのです。

では、ウソをつく必要のなくなった平成24年の教科書はどんな風に
日本国憲法の成立を語っているのか。
例えば清水書院の教科書はこんな言い方をしています。

「ポツダム宣言にもとづいて、憲法の改正を求められた日本政府は、
連合国軍総司令部から民主主義を基本とする憲法案を示された。
これをもとにつくられた改正案が、新たに20歳以上の男女による普通選挙で
選ばれた国会で審議・議決されて、日本国憲法が誕生した」

たしかに、ここにはウソは書かれていません。
しかし本当のことも書かれていないのです。
この文章がすべて「られた」「された」と受動態で書かれていることに
お気付きでしょうか。
いったい、この憲法は誰が作ったのか、という肝心の問いを、
この執筆者は完全に素通りしているのです。

《主権なき中で主権うたう矛盾》

 同時に、連合国軍総司令部が日本政府に憲法案を(示しただけでなく)
強制したこと。総司令部が厳しい検閲によって、そのことを一切日本国民に
知らせなかったこと。そうした事実も全く語られていません。
それに言及しているのは自由社と育鵬社のみなのですが、この2社ですら、
当時の日本は軍事占領下にあって国家主権を奪われていた、
という事実については、一言も語っていません。

占領を解かれて半世紀以上もたっているのに、どうしてこんな風に
すべての教科書が本当のことを避けているのでしょうか。
それはもし日本国憲法の成立について本当のことを語ってしまうと、
それにつづく話がすべてめちゃくちゃになってしまうからなのです。

どの教科書も、日本国憲法の三大原理として「国民主権、平和主義、基本的人権」
をあげています。
その第一の「国民主権」とは、
「国の政治のあり方を最終的に決める力(主権)が国民にあるということ」
と説明されています。
当然それは憲法を改正したり制定したりする力でもあるはずです。
ところが、日本国憲法自体は「主権」が完全に奪い去られた状態で制定された
--ということになると、まるで訳のわからない話になってしまいます。

《事実示し考えさせる教育を》

公民教科書では「国民主権」と「国家主権」とが完全に別物のようにして
扱われていますが、もともとは同じ一つの概念の内側と外側といった関係です。
実は、そもそも「国民主権」とは、フランス革命における、
王を殺して国民が権力を奪うのが正義だ、という思想に基づく、
問題のある政治原理なのですが、なににせよ「国家主権」のないところでは
「国民主権」も成立しえないのです。

さらに言えば、国家が一切の力を放棄するという日本国憲法の「平和主義」は、
国家主権の放棄であり、そこでは「国民主権」が成り立たないどころか、
近代憲法自体が成り立ちません。国民の「基本的人権」を守ることも
不可能となります。

つまりこんな風に、日本国憲法は全くめちゃくちゃな憲法なのです。
その衝撃の事実をありのままに子供達の目の前にさらけ出すこと--本当の
考えさせる憲法教育はそこから始めるべきでしょう。(はせがわ みちこ)
(http://sankei.jp.msn.com/politics/news/130430/plc13043003150001-n1.htm)