[誠の侍たち・其ノ四~「仁」と「忠」前半~]のつづき



一方、東京の大東屋が、元新撰組・島田魁に送った手紙
「明治四年九月五日付 島田魁宛 大東屋河衛書簡」によると、

極て内々の使者「市村鉄之助」が函館脱出後に大東屋を訪ね、
土方から預かった手紙と品物を届けに来た。その手紙を読んでから、品物の一部を
売った事。上記の品物以外にも、土方 歳三は鉄之助に刀二振を預けたようだが、
大東屋に着いた時には、すでに、その刀二振は無かった。

とある。
「今昔備忘記」「大東屋河衛書簡」との事柄から読み解くと

二股口の戦いで敵の進軍を食い止めるも退路を絶たれる恐れが出てきた歳三は、
五稜郭に引き返し、最期の時が近いと察し、まだ若い鉄之助を助ける為に、
大東屋宛の手紙に金目の物と、
佐藤家に遺品を届けるという命令を出したのです。

鉄之助は、歳三が手配した横浜行きの外国船に乗りますが、戦の為、出航が遅れ、
匿って貰っている船内の小部屋の中で、歳三の死を伝え聞きます。

鉄之助の持ち物は、
歳三の遺品(あの有名な洋装の歳三の写真、遺髪、二振の刀?)、
大東屋に届ける手紙と品物(何かは不明であるが、売る事の出来る物である)
支度金として渡された二分金で三百両(二分金約600枚=1.8KG)
新政府軍の迫る中、急ぎの出立であるから着の身着のままで、
五稜郭をあとにしたことだろう。

数日後、横浜の港に着いた鉄之助であるが、戦衣装では目立ち過ぎ、新政府側の
者に見つかってしまうと考え、金と手紙、歳三の写真、遺髪を胴締めに隠し、
古着を着て、江戸(東京)を目指し東海道を歩き始めます。

ここで、疑問が残ります。
「大東屋河衛書簡」に記載されている、歳三が持たせたという刀二振の行方です。
①何らかの理由で、鉄之助が手放した。
②大東屋が、島田魁に送った手紙が偽りであった。

①について、
*歳三を慕い、共に討死の覚悟を決めていた鉄之助であるから、命令は絶対である。
*歳三から預かった物を途中で自ら手放すとは考えにくい。
*あれだけ物事を読む力がある歳三が、新政府軍の中を 江戸とその西の日野に
 行く鉄之助に当然目立つであろう刀二振を持たすであろうか?
 鉄之助は、自分の刀と合わせて三振の刀を持つ事になる。
*少々強引だが、
 「鉄之助が敗戦の将と知っていた外国船の船長が弱みに就けこみ、奪った」
 とも考えられなくはないが、もし、その様な状況になれば、
 鉄之助は命を賭けてでも守ったであろう。
*では、逆に「鉄之助が船代として、船長に渡した」
 自分の刀なら可能性はあるが、歳三からの預かりの刀は、渡さないと考えられる。

②であるが、
*遺品でもある歳三から届いた品物の一部を売っているという事は、
 そんなに親しい間柄ではなかったのかもしれない。
*歳三が、金銭的な事で大東屋に行かせたのなら、持たせた金スを渡す様に
 言い付けたのではないか。
 もし、刀を渡すなら、大東屋ではなく佐藤家の方が自然である。
*大東屋は、なぜその様な手紙を島田魁に送る必要があったのか。
 

鉄之助が、蝦夷地・函館・五稜郭を出立して、日野の佐藤家に着くまで、
約2~3ヶ月かかっている。
「今昔備忘記」   5月11日から数日内に出立・7月某日着
「大東屋河衛書簡」 4月15日出立・不明

順調に来れば、
 [船]10日~、[徒歩]2日で江戸に着き、1日で日野まで行くことは可能だろう。

また、佐藤家に着いた時の鉄之助は「乞食の格好をしていた」「風呂に入れた」
とあるから本当に汚れていたのだろう。

すなわち、下船後に1ヶ月半~2ヶ月半の期間をかけて江戸に辿り着いている。
ということである。約65KM~の距離をである。

「今昔備忘記」にあるように、船が横浜に着いていたとしたら、かかり過ぎである。

*「鉄之助」は、この間、何をしていたのだろうか。


この他にも、「沢 忠助」という隊士も、
歳三の遺品である下げ緒(現在、佐藤家にて所蔵)と
歳三の戦死状況を記載した「安富 才助」の手紙を預かって、
約3年の歳月を経て、明治5年頃に佐藤家に届けたともあります。


将たる者は、士道に背くことなく最期まで戦い、
また臣下の者も多難を乗り切り忠節を尽くす。

その懸命な姿に、人々は感銘するのでしょうか。


 歳三の句です。

   「横に行き 足跡はなし 朝の雪」