テレビや映画で、土方 歳三の最期が描かれると良く出てくるシーンがあります。
蝦夷の地で、新政府軍が上陸、迫り来る危機。
歳三が側らに居る若い隊士に、刀と写真を渡し「日野の佐藤彦五郎に届けろ」
というやつです。

しかし、若い隊士は、、

「私はこの地で討ち死にする覚悟を決めております。誰か別の者に命じて下さい」

と言います。すると歳三は、

「我が命令を断るとあらば、今この場で討ち果たす」

と凄い剣幕で返します。

この若い隊士は泣く泣く、出立いたします。


彼は「市村鉄之助」という名の侍です。
数え14歳(満12歳)で、兄と共に新撰組に加わりました。
その後の激戦で兄が脱走したあとも、鉄之助は身の回りの世話をする小姓として、
歳三の側を離れる事は、ありませんでした。

歳三は鉄之助の事を「頗る勝気、性亦怜悧」(たいそう気が強く、賢い)と
周りに話しております。
だからこそ、遺品となる大切な物を歳三は、鉄之助に託したのでしょう。


日野の佐藤家に伝わる話があります。
歳三が、鉄之助に託した遺品の届け先の家です。

或日の夕暮に古手拭を冠り(かぶり)、筵(むしろ)をまとい、破れた古着を着た
乞食小僧一人が、軒下にて我が家の様子を窺っているので、出て行って叱るが、
中々立ち去らない。果てには、台所に入ってきて「御主人に会いたい」と言い
胴締めの中から写真と小切紙を出した。
写真を一目見るやアッと驚き、中庭に廻し、父、彦五郎に伝え、
その間に乞食小僧を風呂に入れ、着替えさせて、座敷に通す。
写真は正に歳三にて、その小切紙には、「使の者の身上頼上候  義豊」と
歳三の直筆で書いてあったからだ。
彦五郎が「あなたは何者か」問うと、涙ながらに、
「私は、土方大将の小間使いをしている、市村鉄之助と申します」と話し始め、
歳三の命令で、ここに来た事。歳三の手配した外国船に乗って蝦夷地を出た事。
出航の遅れた船の中で、十一日の正午ごろ一本木海岸にて、
歳三が戦死したと聞いた事。そして、函館戦争の詳細を話した。
その後、食客として三年ほど自宅にて匿い、鉄之助持参の金に餞別を加え、
親戚の所へ、横町吉右衛門に送らせた。

この話は、佐藤彦五郎氏のご子息・佐藤俊宣氏が、大正になってから記述した
「今昔備忘記」に記載されております。
この記述の中に、冒頭に記した「歳三と鉄之助の別れのシーン」があるのです。


「函館の戦い」の時、鉄之助は、数え16歳。逝くにはまだ早すぎます。
歳三は、この若者に生きて欲しかったのではないでしょうか。


「市村鉄之助」に関しては、もう一つの史実が残っております。
東京の大東屋が、元新撰組隊士・島田魁に送った手紙に鉄之助ことが、
書かれているのです。

                                 つづく