新撰組/副長、幕臣/寄合席格、蝦夷共和国/陸軍奉行並、と立場は変わったが、
「土方 歳三」の後半生は、戦いの日々でした。
いや、もしかしたら前半生も違う意味で戦いの日々を過ごしていたのかもしれない。


歳三は、豪農の家に生まれたとあります。おそらく郷士の家系であろう。
本来なら、平時は農業を営み、事ある時は、武器を持ち戦う半農半士です。
多摩の郷士といえば、家康公が作った「八王子千人同心」であります。

多くの多摩郷士には、多かれ少なかれ「八王子千人同心」の末裔としての誇りがあり、
その為か、歳三の姉の嫁ぎ先、日野宿名主 佐藤彦五郎は、自宅に道場を建て、
人を集めて、村人と共に剣術の修行をしていました。

しかし、天下泰平の世、二本差しの官僚武士からは、農民と扱われ、
表立って、苗字を名乗る事も帯刀する事も許されていないのが現実です。

その様な環境の中、幼き頃の歳三が本物の武士身分に憧れたのも当然のことです。


だが、歳三は、長兄ではない故、商家へ奉公に出されました。
当時の奉公といえば、10代前半から住み込みで働く「丁稚奉公」です。
使い走りや雑用の毎日です。理不尽な事も多いと思います。
村人に「茨餓鬼(ばらがき)」と言われる位の乱暴少年・歳三が、到底、無事に
勤まるとは思えません。恐らく、何回も奉公先を飛び出した事でしょう。

何度目かに実家に戻った歳三は、実家の副業でもある「石田散薬」の行商を
する事となりました。

武士になる事に憧れのある歳三は、自己の姿を昔の武芸者が武者修行として
諸国をまわった姿に己を重ね合わせ、各地を歩いて周ったのではないでしょうか。
当然、武者修行ですから、「木刀」くらいは、持って歩いたでしょう。
もしかしたら「長脇差」を帯びていたかもしれません。
今とは違い、歩いて野を越え山を越えての旅です。
盗賊まがいに出会う事もあります。そんな様な時は「蹴る・投げる」なんでもありの
実戦剣術で、難を逃れたに違いありません。


姉の嫁ぎ先・名主の佐藤彦五郎の所には、頻繁に行っていたと伝わります。
佐藤の家には道場もあり、何よりも実家と違い、
顔を出せば良くしてくれたのだと思います。

ここで歳三は、人生を大きく変える出会いをします。
「天然理心流」の若先生であり、佐藤彦五郎の義兄弟でもある、
「近藤 勇」との運命の出会いです。
歳三24歳・近藤25歳のときでありました。


この「天然理心流」は、剣術と言うより総合武術と言った方が良い流派です。
剣術、居合術、小太刀術、柔術、棒術を行うのです。

そして、常に実戦を想定しての稽古でもあります。
実戦では、いかなる状況に於いても、臨機応変に対応しなければ命が無くなります。
歳三が、入門2年足らずで師範代になれたのは、
本人の資質(恵まれた体躯、行商などで鍛えた体力など)による所は大きいですが、
この様な教えの流派だからこそではないでしょうか。

正に、歳三は入門前から実戦をおこなっていたのですから。


そして、4年後の文久3年(1863年)2月、天然理心流・試衛館道場の仲間と共に、
将軍・徳川家茂公警護のための浪士組に参加し、京へ上る事となるのです。

こうして、歳三の武士としての人生が始まったのでした。


歳三が、浪士組にて京へ上る前に詠んだ句です。

   「さしむかふ 心は清き 水かゞみ」