土方 歳三が、育て築き上げてきた「新撰組」も、時代の流には逆らえませんでした。
新撰組にとっても、徳川幕府にとっても分水嶺となった戦がありました。

歳三が、この世を去る約1年と半年前のことです。
のちに「鳥羽・伏見の戦い」と呼ばれる戦が、薩摩の策によって勃発したのです。
新鋭の武器(西洋の銃など)同士の始めての大掛かりな戦いです。


この時、「歳三」率いる新撰組は会津藩兵と共に伏見奉行所に居ました。

戦が始まり、薩長軍が放つ砲弾の中「予に続け~」との歳三の号令と共に、
新撰組・隊士たちは勇猛果敢に抜刀し、斬り込んで行きました。

この斬り込み隊により一時は優勢に立ちました。
しかし、降り注ぐ砲撃により戦死者が増え、
徐々に後退、やむなく深夜には撤退を始めます。

後に江戸城に登城した際、歳三は、佐倉藩の依田学海にこれまでの戦況を尋ねられ、
「戎器は砲に非ざれば不可。僕、剣を帯び槍を執り、一も用うるところなし」
と語り、洋式軍備の必要性を訴えた。と伝わっております。

翌朝、淀堤千本松へ陣を移した新撰組と会津藩兵は、薩長軍相手に
尚も激しく戦います。
淀堤千本松の陣は健闘しますが、その他の陣が破られ、
旧幕府・徳川方各隊に、大阪城への撤退命令が下ります。

この頃には、新撰組隊士も約100名ほどに減っていたと伝わります。
この戦いで、江戸「試衛館」時代からの友であり、同郷の「井上源三郎」も
銃弾に倒れました。

生き残りの旧幕府軍は、慶喜侯の居る大阪城にて体制を立て直す為に撤退しました。
体制を立て直し、慶喜侯さえ御所内に入る事が出来れば、
徳川・旧幕府を中心とした政権を作る事も可能と考えての撤退だったです。

しかし、
旧幕府・徳川方に信じられない事が起きたのです。
総大将の「徳川慶喜」が、味方をも騙し、軍艦で江戸に逃走したのです。

尚も大阪城にあり、決戦を挑もうとした旧幕府軍に対しての「徳川慶喜」の下知は、
「天皇への恭順を示し解散せよ」すなわち「新政府軍に逆らうな」というものでした。


結果、旧幕府軍は、錦の御旗(真偽は別にして)を掲げた薩長連合に敗北しました。
旧幕府軍にも新鋭武器を持つ部隊があったにも関わらず、
指揮官にその力を生かす能力がなかったのではないかと思われます。

現に歳三が、新鋭武器を持った兵を指揮した宇都宮城の戦いや二股口の戦いでは、
味方が敗走を続ける中で勝利を重ねました。


この戦を堺に旧幕府・徳川は、没落の一途を辿るのであります。

同時に、これまで命を賭けて、天皇・京都御所を守ってきた新撰組と会津藩は、
いきなり「逆賊」の汚名を着せられました。 
誠に悲劇な話であります。

 歳三の句です。

   「願ふこと あるかもしらず 火取虫」