日本からハワイ諸島に向かう途中、海鳥たちの楽園がある。

昭和17年(1942年)6月5日、その楽園、ミッドウェー諸島にて、
大日本帝国海軍と米国海軍が3日間に渡る、戦いがあった。

大東亜戦争の「ミッドウェー海戦」である。

結果、

[大日本帝国海軍の被害]
沈没または大破の後自沈=重巡洋艦1・航空母艦4
大破=巡洋艦1
中破=重巡洋艦1
航空機損失=289機

[米海軍の被害]         
沈没=駆逐艦1・航空母艦1
航空機損失=約150機

誠に残念だが、この様になった。

今でも本海戦は、世界中の海軍や軍事好きの人たちが、
シュミレーションするほどですが、なにゆゑ日本が負けたのか、
日本が負ける方が至難であるということです。

詳細に記載したWEBが、たくさんありますから、ここでは書きませんが、
本来は、やらなくても良い戦、真珠湾奇襲なる攻撃をし、
しかも、中途半端な攻撃で、戦略の目的も達成出来ずに終えました。
そして、そもそも米国を参戦させたのが間違えの始まりで、
このミッドウェー攻略も準備期間が短いままの作戦開始など、
最強の大日本帝國海軍を中央上層部は、なにゆゑ活かせなかったのか、
それとも、強いが為に驕りがあったのか?
東郷閣下のお言葉「勝って兜の緒を締めよ」忘れたのか。


一方、現場には素晴らしい将兵がたくさんおりました。
「山口多聞」中将もその中のお一人です。
しかし、惜しくも、このミッドウェー海戦で亡くなられました。
司令官として第二航空戦隊を率いての参戦でした。

第一次世界大戦では地中海で戦い、
いわゆる日中戦争では第一空襲部隊指揮官として蒋介石を叩き、
真珠湾攻撃、インド洋作戦と戦い抜いてきた兵(つわもの)です。

日米開戦(真珠湾攻撃)の時に、山口小将(戦死により中将)は、
「時局は重大な転機を迎えている。十年、兵を養うには一に、この日のためである。
緊褌一番、実力の涵養に努めよ。戦場において混戦となり信号も届かない場合は、
躊躇無く敵に向かって猛進撃すべし。それが司令官の意図に沿うものである」
と訓示しました。
また、訓練に対しても非常に厳しかったと伝わります。

一方で、真珠湾攻撃作戦の主旨を理解し、米海軍艦を徹底的に叩くと共に、
ハワイにある軍事施設及び石油備蓄施設などを叩く為の準備までして、
出航されていたのです。
(司令長官:南雲中将の判断により実施される事はなかったが。誠に残念である)

さて、本作戦「ミッドウェー海戦」時であるが、
航空母艦・飛龍に乗船、指揮を取りました。

主力空母「赤城」「加賀」「蒼龍」の三空母が爆撃により大被害を受けると、
旗艦に対し「我レ今ヨリ航空戦ノ指揮ヲ執ル」と発信し、
艦内には「本艦(飛龍)は今より全力を挙げ敵空母攻撃に向かう」と発します。

そして、敵空母との間合いを詰め、二回に亘り航空攻撃をおこない、
敵主力空母「ヨークタウン」を大破させる事に成功しました。
正に有言実行です。
「ヨークタウン」は、その後の潜水艦の攻撃で撃沈させました。

しかし、敵機の「飛龍」に対する攻撃も激しくなってきます。
護衛艦が対空砲火で迎撃し、上空の零戦も迎撃しますが、
次から次へと現れる航空機の攻撃にさらされ、
遂に「飛龍」に1,000ポンド爆弾4発が命中します。

艦橋は、無事であったが、艦内で火災が発生。
消火に努めるが、夜になり再度爆発がありました。

深夜になり、機関室との連絡が取れないとの事で、艦長が艦の放棄を決定し、
総員退艦を発します。

退艦にあたり部下を集めた山口中将(当時は少将)は、

「皆、一生懸命努力したが、この通り本艦もやられてしまった。
 力尽き、陛下の艦をここに沈めなければならなくなった事はきわめて残念である。
 どうか皆で仇を討ってくれ。ここでお別れする」

と訓示し、一同水盃をかわし皇居を遥拝し、聖寿の万歳を唱えたといいます。

そして、山口中将司令官と加来止男艦長は、艦と運命を共にしたのです。


後に、米国ニミッツ提督が山本五十六長官機の撃墜の是非を確認した時に、
「山本を殺しても、後任により優れた指導者が現れては困る」
と情報部の将校に言った際、真っ先に上がった名前が「山口多聞」であったとされる。
そして、その将校は、
「彼は既に戦死しているから安心だ、山本に代わり得る人物は他にいない」
と返答したという。



全ての兵者に敬意を表しますと共に、英霊の御霊に感謝の誠を捧げます。