[昭和の侍たち①~アッツ島~]のつづき
山崎保代司令官が、覚悟を決め打電した、
「~我が軍は最後まで善戦奮闘し国家永遠の生命を信じ武士道に殉じるであろう」
を聞いた参謀総長は参内し、
アッツ島の戦況と山崎守備隊司令官の覚悟を天皇陛下に上奏した。
天皇陛下は、
「アッツの守備隊は、非常によく寡兵をいて勇戦奮闘してよくやっている。
どうか北方軍司令官によく伝へよ」と下命された。
天皇陛下の聖旨は直ちにアッツ島に打電され、
守備隊より、
「聖旨全線に伝達 全将兵感激其の極に達し志気より一層軒昂たり」
と返電あり。
この時、既に守備隊は窮地に到っていたと思うと切なくなるが。
そして、29日の朝、参謀総長が参内して上奏の際、陛下から2回目の
「将兵への御言葉」があったとされる。
陛下はそれを「アッツに伝えよ」と参謀総長に下命された。
2回も御言葉を賜わるのは異例の事である。
天皇陛下のアッツ将兵に対する御心が推察される。
しかし、この御言葉が、アッツ島の将兵に届く事はなかった。
参謀本部が、打電したのは深夜になってからだったのだ。
すでに無電器を破棄し、最期の突撃をしている頃である。
この無電を知る術もなく将兵達は、祖国や家族に思いを馳せながら
散って逝ったのだ。
(このような参謀本部の数々の失態を隠匿する為に、話を捏造した
陸軍参謀が居たことは、断じて許せない)
約2ヵ月後、300kmほど西にある「キスカ島」で、後に「奇跡の救出作戦」と
言われる作戦が行われた。(帝國海軍部が強く押したとも言われている)
濃霧に乗じた強行作戦で、「キスカ島」にいる守備隊5200余名を
無傷で撤退させる事に成功したのである。
7月26日、米艦隊の複数のレーダーに何回か艦影反応があり、砲撃。
そして、約40分後に反応は消失した。米海軍は、日本艦隊を撃滅したと確信した。
しかし、その海域に日本艦隊はおらず、したがって日本軍に全く損害は出てない。
一方的に米軍が無駄弾をばら撒いただけであった。
28日、米艦隊司令長官は弾薬補給のため一時、艦隊を後退させる。
その翌日、日本艦隊は、アメリカ艦隊がいなくなっているとは知らずに、
2度目のキスカ湾に突入し、即時、撤退作戦を完了した。
10日ほど前に一度作戦を行ったが、霧が晴れてきた為、現場指揮官の判断により
突入を断念して、帰投していたのである。
そして、日本軍守備隊が撤退したとは知らず、
補給が終わった米軍は、海上封鎖を再開。
後に艦隊による十分な艦砲射撃を行い、濃霧の中、兵力約34000名をもって
「キスカ島」に上陸する。
アッツ島の日本兵の勇敢な戦いを知っている米兵は、極度に緊張した状態で、
上陸・進軍した為、各所で同士討ちが発生し、
死者約100名、負傷者数百名を出した。
そんな中、上陸した米兵がそこで見たものは、軍用犬2匹のみだったとの事である。
また日本軍・軍医の策略で兵舎前に[ペスト患者収容所]と書かれた看板を残し、
これを見たアメリカ軍はまたパニック状態に陥り、緊急に本国に大量のペスト用
ワクチンを発注するという失態を演じている。
作戦遂行中に日本軍に都合の良い状況が重なり成功した作戦であるが、
これが「偶然」という一言で片付けていいのだろうか。
この作戦に参加した将兵やキスカ島から撤退した将兵たちは、
「この作戦の成功はアッツ島の英霊の加護があったと思った」
と言う者が居たという。
確かな事は、
残された仲間を救う為に
現場の指揮官が救出作戦を強行したという事であり、
祖国・愛する人を守るために
山崎司令官以下、米川部隊2650名の勇敢に奮闘した日本国民が居た。
ということである。
全ての兵者に敬意を表しますと共に、英霊の御霊に感謝の誠を捧げます。