今から70年前の本日、昭和18年(1943年)5月29日、
北海道から北東に遥か2000kmの遠き島にて、
大日本帝國守備隊が玉砕した。
その島の名は「アッツ島」である。
アッツ島とは、現米領アラスカ州アラスカ半島から露国カムチャツカ半島に至る、
ベーリング海上に弓状に連なるアリューシャン列島の中にある、
面積900平方キロメートル、新潟県の佐渡島とほぼ同じ大きさの島である。
年間を通して晴れる日は少なく、曇りや雨/雪、また濃霧の毎日で、
夏場の気温でも13度位と過酷な環境の島だ。
大日本帝國陸軍は、昭和17年(1942年)6月に、帝國海軍のミッドウェー作戦の
陽動作戦として「アッツ島」とその西の「キスカ島」を攻略、占領した。
「アッツ島」に上陸した将兵は、過酷な環境の中、米国の空襲、艦砲射撃を
受けながら飛行場の建設を進めた。
しかし、キスカ島に対する米国の空襲が激しさを増し、上層部はアッツ島の部隊を
キスカ島の応援に向かわせた。
入れ替わりで、「アッツ島」に千島列島北東端の島・占守島を守備していた
米川中佐が率いる歩兵隊2650名が、10月30日、アッツ島に上陸した。
翌昭和18年になると米国の攻撃は勢いを増し、いよいよ米国の上陸作戦が間近に
迫り、陸軍北方軍司令・樋口中将は増強部隊を送るが、制空権のない海域であり、
また輸送船団の護衛にあたった海軍艦隊司令・細萱中将の判断ミスもあり、
550名の増加部隊と大口径砲や必要物資も「アッツ島」に届く事は無かった。
4月18日に守備隊司令官・山崎保代大佐が、数名の副官と共に、
潜水艦を使いアッツ島に上陸。
しかし、約5700名の増援部隊と武器弾薬・食料・資材は、上層部の許可が出ず、
まだ北千島と北海道で、輸送を待っている状態であった。
5月に入り、山容が変わる程の艦砲射撃と爆撃が、連日繰り返し行われ、
12日、いよいよ米国軍の上陸が始まった。
その数およそ11000名、日本軍アッツ守備隊の4倍以上の数である。
山崎保代守備隊司令官以下、将兵は、熾烈な防衛戦を展開し奮闘した。
援軍の到着を期待しながら戦う事2週間、味方の損害も著しく、
増援の要請に対する帝國陸軍上層部の返電も芳しくなく、山崎司令官は、
「国家国軍の苦しき立場は了承した。
我が軍は最後まで善戦奮闘し国家永遠の生命を信じ武士道に殉じるであろう」
と打電、覚悟を決める。
そして、5月29日夜、
山崎司令官は、各将兵の労を労った後に、
「機密書類全部焼却 これにて無線機破壊処分す」を最後に打電し、
生き残っていた日本兵約300名は山崎司令官を陣頭に最後の突撃を断行した。
この意表を突いた突撃によって米軍は混乱に陥り、日本兵は次々とアメリカ軍陣地を
突破し米師団本部付近にまで肉薄するが、雀ヶ丘で猛反撃を受け玉砕した。
この突撃の時の様子が、米国の資料に残っている。
「22:30頃、アッツの戦いで最大の万歳突撃が決行された。
先頭に立っているのが部隊長だろう。右手に軍刀、左手に国旗を持っている。
どの兵もボロボロの服を着て皆どこかを負傷している。
脚を引きづり膝をするようにゆっくり近づいて来る姿に我々アメリカ兵は、
身の毛がよだつ思いだった。
一弾が命中して先頭の部隊長が倒れた。暫くすると起き上がり、また倒れた。
再び起き上がり、左腕はだらりとぶら下がり右手に刀と国旗を共に握り、
這うように米軍に迫って来る。
拡声機で「降参せよ! 降参せよ!」 と叫んだが日本兵は耳をかそうとはしなかった」
日本では、「アッツ桜」と呼ばれる花があります。
1つの球根から花茎を伸ばし、その先端に1輪の可憐な花を咲かせます。
名前の由来は諸説ありますが、
アッツ島玉砕の報に悲しみ、その死を悼んで名付けたとあります。
全ての兵者に敬意を表しますと共に、英霊の御霊に感謝の誠を捧げます。