拙者にとって子守唄といえば、ばあちゃんが歌ってくれた
「東郷さん」と「日露戦争数え歌」である。
いまだに口ずさむ事がある。


本日、5月27日は、「海軍記念日」である。
明治38年(1905年)の日露戦争時における「日本海海戦」が始まった日です。

日露戦争は、当時、南下政策を進めていたロシア帝国が、満州を侵略し朝鮮半島にも
利権を広げてきた事に危機感を感じた大日本帝國が、まず朝鮮半島の国家基盤を
買戻し、回復を図ったにも関わらず、軍事力を背景に大日本帝國に圧力を
かけてきた事により起こった戦争である。

このために大日本帝國は日韓議定書を締結し、その後に第一次日韓協約を締結。
一方、大韓帝国側も李氏朝鮮の状態では難しいとして日韓合邦を目指そうとし、
大日本帝國に協力をしている。

最期まで、大日本帝國は日露交渉にて妥協案(満韓交換論)をロシア側へ提案したが、
朝鮮半島でのロシアの利権を妨害される恐れのある妥協案を拒否した。
結果、1904年2月6日、外務大臣・小村寿太郎は国交断絶を言い渡し、
駐露公使・栗野慎一郎は露国・ラムスドルフ外相に国交断絶を通知した。
そして、明治37年(1904年)2月8日に交戦が始まったのである。


さて、日本海海戦であるが、大日本帝國海軍連合艦隊の連合艦隊司令長官は、
旗艦「三笠」に乗船した「東郷平八郎閣下」である。

開戦にあたり、
「敵艦隊見ユトノ警報ニ接シ聯合艦隊ハ直チニ出動、コレヲ撃滅セントス」
「本日天気晴朗ナレドモ浪高シ」
と打電し、

あの有名な文言、
「皇国ノ興廃此ノ一戦ニ在リ、各員一層奮励努力セヨ」
(連合艦隊参謀・秋山真之の草案)
を発し、

[もう後はない]の意味を込めZ信号旗を戦艦「三笠」のマストに掲げ、

一等国ロシア帝国のバルチック艦隊に挑み、
当時の海戦の常識を逸脱した敵前大回頭(トーゴーターン)を行い、
相手の度肝を抜き、約20時間の激戦にて、
見事に2倍強の戦力を持つロシア艦隊を打ち破ったのである。
(もし、敗れていたら日本は植民地にされていたと思うと怖くなる)

これは、各司令官以下、参謀、艦長、兵卒に至るまで、士気、常に高く、
ぎりぎりまで演習を行う事で、船隊の錬度を十分に上げていた事によるものである。

また、敵戦艦「オスリャービャ」を撃沈した際、敵艦が乗員を救助する間は、
日本艦隊からは1発の砲弾も撃たれることはなく、救助作業を見守った。
さすが、侍である。
敵艦降伏後は、大日本帝國海軍艦からも救助艇を出し多くの敵兵を救助し、
手厚く保護、世界各国から賞賛が寄せられた。
まさに、侍である。

負傷し捕虜となった敵将・ロジェストヴェンスキー少将バルチック艦隊司令長官は、
佐世保の海軍病院にて療養中に東郷閣下の見舞いを受け、その礼を尽くした態度と
言葉に涙を流しながら「敗れた相手が閣下であったことが、私の最大の慰めです」
と述べたという。

この一方的勝利が、和平交渉「ポーツマス講和会議」へと繋がるのである。

こうして、明治維新から40年足らずで列強五大国入りを果たした。

やはり、真の武人達は違う。


全ての兵者に敬意を表しますと共に、英霊の御霊に感謝の誠を捧げます。