風化させてはならない米軍による無差別攻撃
悪名高き『東京大空襲』よりも
投下された爆弾が125t多く、
多くの一般市民が犠牲になった『名古屋大空襲』


《名古屋大空襲》
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愛知県が本格的な空襲を受けたのは昭和17年12月13日からで、攻撃はその後日々激烈さを加え、終戦まで続いた空襲の回数は、 実に111回を数え、死者11,555人、重軽傷者14,565人(※)、家屋の全、半焼約165,000戸、全半壊約20,000戸に達する大被害を受けた。

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来襲機数は延べ5,200機、投下爆弾12,000発、焼夷弾1,000,000発以上と推定されている。
初期における空襲は、軍需工場の密集する名古屋に限られたが、昭和20年6月頃になるとその目標は中小都市にも拡大された。
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6月には豊橋市、7月には一宮市、岡崎市がそれぞれ壊滅的な打撃を受けた。 また、8月7日には豊川市の豊川海軍工廠が爆撃目標とされ、2,485人に及ぶ死者と10,000人をこえる重軽傷者を出したが、 このなかには多数の動員学徒や女子挺身隊員が含まれている。

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(愛知県警察本部発行の愛知県警察史の資料による)

※愛知県の重軽傷者数は、経済安定本部が作成した「太平洋戦争における我国の被害総合報告書」によれば、15,565人と計上されている。
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《名古屋が空襲の目標となった理由》
理由は、愛知・岐阜・三重で、日本の戦闘機および戦闘機エンジンの全生産の40-50%前後を占めると分析していて、 日本の航空機産業の最大中心地ととらえていた。

↓炎上する名古屋城(当時国宝)
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《参考》
【愛知県名古屋市インターネット戦争資料展】
http://www.pref.aichi.jp/kenmin-soumu/chosakai/kuusyu/kuusyu.html


【総務省一般戦災ホームページ名古屋市における戦災状況】
http://www.soumu.go.jp/main_sosiki/daijinkanbou/sensai/situation/state/tokai_06.html


【主な空襲一覧】
http://otomodachi.net/omonakusyuichiranhtm.html