副題:「受け入れる」と「諦める」の違い、あるいは「しかたがない」に対する耐え難き怒り
(今日はなんと副題があるんですねーびっくりでしょ?笑)
前書き
気を取り直して、皆さんこんばんは〜。
相変わらず、バイトもない、勉強も進まない、不眠ニートのデプレ子ちゃんです
それでも昨日はカウンセリングに行って〜、役所に行って相談して〜、
加えて今日はオンライン面接で〜、となかなか忙しい1日だったので、こんな時間の更新になりました。
(割といつも深夜更新ですが笑)
で、もちろん今私がカウンセリング受けたり、行政相談に行ったりするのは、家族関係(ていうか行方不明の実母)のため(せい、とも言う)なんですが、、、
昨日カウンセリング中にふつふつと湧いてきた思いがあり、
それを皆さんと傍迷惑にも分かち合いたく存じますので記事にした次第です。
もしかしたら、今回の記事は少し人を選ぶかなと思いましたが、あえてタイトルに【うつ】表記はつけませんでした。
それは私の気分が全く「うつ」状態で書いた記事ではなく、
むしろ今「うつ」な感覚を麻痺させるように自己防衛して生きている人にこそ聞いてもらいたい話なので、ノーマルな表現にしました。
ただせっかくブログを読んでくださる皆様にご不快な思いをさせるのは本意ではないので、先に本日の記事のテーマを開示しておきます。
それは、『怒り』です。
といっても、特定の誰かに対する「許せない」とか「憎い」とかいった怒りの話ではありません。
もっと壮大かつ悲壮感たっぷりの、
いうなれば『運命に対する怒り』というのが本日のテーマです。
(大きくでたよコイツ笑)
ここまでの記述をお読みになって、「どうも読むと気落ちしそうだなぁ〜」とか「むしろお前にムカつくんじゃい表出ろ」とかの予感がある方は、また明日のブログでお会いしましょう。
一応1日1記事更新が私の目標なので
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とゆーわけで、もう皆さま準備の方はよろしいですね?
生い立ち記事とどっちに書くか迷ったんですが、
カウンセラーさんも内容に普遍性を認めてくださったので、
デプレ子は皆様と共有したく存じます!
この……燃えたぎる怒りを!!
そう。
デプレ子には、幼少期よりずーっとたった1つだけ猛烈に許せないことがあるのです。
ずっと怒り続けています。
今後もきっと私は決して許すことはないと思います。
一体何に対してそんなに怒りを感じているのか?
それはずばり、
『しょうがない』
『しかたがない』
『身の丈にあった』etc, etc......
といった言葉、想念、情緒、そういった諸々の全てです。
一体、何が、しょうがないというのか?
本当になにがしょうがないんでしょう。
そして、しょうがないから何なんでしょうか。
そして、「しょうがない」「しかたない」からと言って
我々はどんな現実も背負わなきゃいけないんでしょうか?
この辺りのことに昔からずーっと違和感や反発を覚えていたので、この記事を書こうと思いました。
まず、卑近な例で恐縮ですが、私を例にとってご説明いたします。
私の父の「しかたがない」話
まず、私の実の父親は、私が生まれた時から病気でした。
特に治療法のない病気なので、完治とかはありません。
当然そんな病気にかかったのは父のせいではありません。
遺伝とか、気質とか、単なる運とか、そういった誰にも証明できないものが原因です。
だから父が病気だったのは「しかたない」ことですよね。
そこに加えて母について考えてみます。
夫と結婚してから、本格的に病気が発覚した。
二人で開業して待望の第一子も生まれて、さあこれからって時に、夫の病気は少しずつ悪くなっていくし、治るものでもないので一生付き合っていかなければならない。
並行して子供はどんどん手がかかる年頃になってきますが、一歩間違えると命が危ないし、稼がなければ生きていけないので、常に病気の夫が最優先。
これも「しかたがない」ことですよね。
何度も入退院を繰り返した父ですが、私が中学校に上がった頃には、もう疲れ果てていて、生きる意思のようなものが感じ取れませんでした。
案の定中学2年生の時に病死。
だけど、その数ヶ月前には、最新の再生医療にかかれるというお話がきていて、もしかしたら、仮に転院して最先端の治療を受けていたら、私が成人するときくらいまでは生きていたかもしれない。
しかし彼はもう疲れ果てていて、最後の方は医師の忠告も半ば無視した薬の飲み方をして、胃に穴が空いて(胃穿孔といいます)、その傷が塞がらず、結局は肺炎で死亡しました。
ようは消極的に、生きるのを諦めてしまったということだと思います。
でもこれも「しかたがない」ことですよね。
だって父の死の直前には、あんなに裕福だった家計は父の医療費のために火の車で、おまけに父本人だってまだ50くらいなのに寝たきりでオムツで介護生活。
それも年頃の娘の目の前でオムツ交換しなきゃならない。
好きだった映画だって、車の運転だって、もう自分の足じゃできないんです。
それまでにも、すでに2回も希望を持って人工関節の手術を受けて、痛みに耐えてリハビリしたのにですよ。
一体彼に何の希望があったていうんでしょうか。
私の父は聖人じゃ無いんだからそりゃ絶望するでしょうよ。
自尊心はズタズタのボロボロ、口に出して「死にたい」と喚かなかっただけすごかったと今じゃ思います。
とにかく父が、まだ義務教育課程の娘がいても、生きるのを諦めてしまいたくなっても「しかたがなかった」という話です。
しかも誰のせいでも無い、病気だから「しかたがないんです」。
私の母の「しかたがない」話
で、母は責める相手がいないから、耐えて、心を殺して、夫の介護をするんです。
だって「しかたがない」ですからね。
そして、お金がなくなってきたら、他に吐き出す先が見当たらないから、
「しかたなく」私に愚痴をこぼすんです。
『いっそお父さんが死んでくれた方が家計は楽なのにな』
『あの人たち(父方の祖父母)みたいなのをありがた迷惑っていうんだよ』
『デプレ子ちゃんは離婚してほしい?』
これも「しかたがない」ことなんです。
だって、自分だって相方が倒れてる間二人分働いて、それでもまだ子供は完全に手を離せる年齢ではなくて、義実家はどうでもいいことでも首を突っ込んできて、
さらに結婚して15年も経っていないのに半寝たきりの夫のオムツを変えるような介護をしなきゃいけないし、
しかもその夫本人がストレスを解消するために映画のDVDだのを買い込むから、余計に家計が傾いていくけれど、
夫がストレスからそうするのが「しかたない」と理解できてしまうから、
だから、だから、だから、
つい唯一空間を共有する「娘」にそんな言葉をこぼしてしまうのは、そう、「しかたがない」ことなんです。
ついでに、
娘をついつい夜中に八つ当たりで怒鳴りつけてしまうのも、物に粗暴な言葉で当たり散らしてしまうのも、「しかたがない」ことなんでしょう。
私の「しかたがない」話
「しかたがない」。「しょうがない」。
思えばこれらの言葉は、私が物心ついた時から、当たり前のように繰り返されてきました。
「どこそこに遊びに行きたい」と私が言えば、「お父さんが病気だからしょうがない」。
「おばあちゃん家に泊まりに行きたい」と言えば、「手首を骨折してしまったからしょうがない」。
「私も〇〇ちゃんみたいに兄弟ほしかったなあ。兄弟同士の繋がりでもう友達になってるみたいだし」と言えば、「お父さんは体が弱かったから仕方がない」。
こんな感じで、本当に、ありとあらゆる日常会話の中に「しかたない」「しょうがない」という言葉が紛れ込んでいました。
おまけにテストでいい点取ったり、学校の先生に褒められたりしたって、似たり寄ったり。
「二十歳過ぎたらただの人。身の丈にあった暮らしをしなさい」なんて感じでね。
「しかたがない」「しょうがない」「身の丈にあった」
子供の私は納得してました。
うちはお父さんが病気だから仕方がない。
おばあちゃんはボケてきてるから、私を従姉妹の名前でしょっちゅう呼んだって(逆はなくて必ず「私が」従姉妹の名前で呼ばれます)しょうがない。
お葬式の時だって、父方の祖父母が私に一言も声をかけてくれなかったのも、悲しかったけれど、母と義両親との折り合いが悪くなってたから仕方がない。
父の弟の息子(つまり従兄弟)に比べていっつも扱いが雑なのも、女だから、体が弱い長男の娘だから、仲の悪い嫁の子供だから、しょうがない。
しょうがない。
しかたがない。
しょうがない。
しかたがない。
ふざけるなよ
いいですか。
大人になった私はあえて、ここに明言します。
そんなのは嘘っぱちです。
大嘘もいいとこです。
この世に確かに「仕方がないこと」「しょうがないこと」は山ほどあります。
例えば人間が空を自由に飛べないのは、生物学上仕方がないことです。
翼を持たない「宿命」に生まれついているから飛べないのは当たり前です。
それでも私は、「しかたがない」という言葉を怒りをもって否定します。
父は父で大変でした。
母は母で大変でした。
そういう場合概ね、父の両親も、母の両親も、またすっごく大変なことを「しかたがない」と思ってくぐり抜けてきてます。
(良くいう毒親は連鎖する、とかいうやつに相当します。で、いつか別記事に書きますが実際にうちはそのケースです)
でも、だから、何だっていうんでしょうか?
それが私が今苦しんでいることに必然性を与えてくれますか?
いえ、今でなくても、
たった10歳かそこらの子供が、何かを諦めることを正当化するに足る理由になり得ますか?
それも決して「悪者」なんていなかったかのように。
全ては必然の「運命」だったかのように。
私はそうは思いません。
あくまで身内だから思い切って言いますが、
結局父も母も自分の「仕方ない」と闘う闘志が足りなかったんです。
「しょうがない」は苦しい現実を耐え忍ぶための魔法の言葉じゃありません。
むしろ勇気を持って現実に立ち向かう意思表明の言葉だと私は思います。
父はどんなに残酷でも、本当に家族(特に子供)と自分のことを思うなら、思うように動かない体を受け入れて、先端医療を受けるなり、保険を見直すなりして、最悪障害者手帳でも生活保護でも何でもいいから、生きることを勝手に諦めてはいけなかった。
母はどんなに困難でも、本当に家族(特に子供)と自分のことを思うなら、何もかも打つ手がない現実を受け入れて、自分一人で何とかできない無力も受け入れて、もっと多くの人に頼ったり、行政に相談に行ったり、勇気を出して父や父の両親とお金の話をしなければいけなかった(娘に残酷な愚痴を浴びせる前に)。
そして父が死んだ後、娘のお金を盗んだなら、お金を返せる・返せないは別として、相手が納得できるような説明をする努力、二度と同じことを繰り返さないようにする勇気を持つ覚悟を決めなければならなかった。
「受け入れる」と「諦める」は似て非なるもの
手厳しい言い方で、傷ついた方もいらっしゃるかもしれません。
例えば生まれつき障害を持った方などは、私などよりもっと「しょうがない」や「しかたない」に塗れた人生を送ってこられたでしょう。
でも、私が言ってるのはそれとは微妙にちがうのです。
私が思うに、
「受け入れること」と「諦めること」は表現上同じ「仕方がない」かもしれないですが、その内実には天と地ほどの差があるとおもいます・
どうしようもない障害・困難を背負った上で、
それを「しかたがない」と受け入れることは、とても誇りある人間として尊敬できる行為です。
前向きで、自分を見捨てていなくて、運命に挑もうとする強い言葉だと思います。
でも私の両親のように、打てる手をすべて打てないで、
途中で「自ら諦めた」という潔い認識も後悔もなく、ただひたすら「あの時は仕方がなかった」という行為に私は深い怒りを禁じ得ません。
それは単なる覇気のない、惰性で、成り行き任せの傍観でしかないでしょう。
自分で「ここでゲームオーバー。リタイアします」というなら、まだ潔さを感じますが、
何も決断しないまま、ただ時が過ぎるのに任せた結果を「しかたない」といって、「私=娘」に押し付けていいんですかって話ですよ。
いいわけないだろ。
お父さん、お母さん。
もう直接言える機会もないのでこの場を借りてはっきり宣言します。
私は「しかたなく」生まれて「しかたなく」生きてきたわけじゃないですよ。
あなた方がそう思って人生を送っている時でも、
私は常に、私に生まれついて課せられた運命(父が病人だとか母が理不尽だ)だとかに対して一度だって反抗すること、疑問を持つことをやめたことはありません。
あなた達の人生は、そりゃもう大変だったでしょう。
だけどあなた達は次の世代にバトンを渡してしまったんですよ。
なら「しかたがない」なんて言い分は、どこにも通用なんかしないと私は思います。
だって、この「私」が生まれつき苦しむ「運命」や「宿命」だったと一体誰が言えるんでしょうか。
何世代も何世代も前から少しずつ歪みが溜まってきて、たまたまその歪みが頂点に達するタイミングで生まれたのが私だとして、
私がそのことに起因する苦しみを「しかたがない」なんて、まるで「宿命」のように受け入れてしまったら、私の人生は何の自由もないことになってしまいます。
人の人生は根本的に自由であるべきだと思います。
だから私は置かれた場所でなんか咲かない
ものの本を紐解けば、やれ「許せ」だの、やれ「前を向け」だの。「置かれた場所で咲け」だの書いてありますが、
上述の通り、私だけは決してそれらの言葉を受け入れられないのです。
もちろん理解はいたしますし、納得もいたします。
本質的には私の言っていることとは全く違う意味で、もっとポジティブな言葉の羅列だとは思っています。
だけど私が望んでいることは、過去との対決なんです。
ここまで「しかたない」で押し通されてしまった自分の人生に落とし前をつけるためには、
その決着がつく前に、
「受け入れる」だとか「今いる場所で頑張る」だとかを目指しちゃなんにも取り返せない気がしてます。
確かに憎むことも無意味だし、後悔しても得はないし、望み通りの境遇が手に入るわけでもないんだから、合理的だとは思います。
でも人間は感情の生き物だし、世界の色んな神話をみてくださいよ。
だいたいどんな英雄も、必ずアホなことやらかして、運命に逆らって、忠告を無視して、痛い目見て死んでってますよ。
凡人の我々が同じことやったていいじゃないですか。
気が済むまで自分の置かれ続けた理不尽な境遇(=運命、宿命)と対決して、怒りたいだけ怒って、
その後すっきりできたらはじめて現状を「受け入れれば」いいんじゃないでしょうか。
少なくとも私は、何世代も前からの「しかたがない」「しょうがない」が結実したような私自身の生まれに怒りを持っており、その出生の仕方を運命というなら、運命に対して怒っており、だからその運命を「しかたがない」なんて言葉で許したりしません。
徹底的に戦います。自分自身の運命と。
それで結果がどうなっても、それが本望だと思います。
この後私の人生がどうなっていくかは分かりませんが、
少なくとも「今置かれている場所」は私の本意ではない「しかたがない」という他人の諦めの結果なので、
「今置かれている場所で咲こう!!」とは思いません。
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と熱く語りつつ、ニートが何をいっても滑稽ですわね笑
でも世の中「しかたがない」と無理やり自分の気持ちを押し殺している人が多すぎると感じたので、こんな記事を書きました。
うつ病のニートに言われても嬉しくもないかもしれないけど、あなたのせいでないことはやっぱりあなたのせいではないし、「あなたはもっと怒っていいんですよ!」ということを何とかお伝えしたかったのです。
昨今は「しかたがない」ことに対して「怒る」という当たり前の行為を、なんとなく白けた目線で見る風潮がある気がしています。
でも、ここに、少なくとも一人は(うつ病クズニートだけども笑)、あなたの行き場のない怒り、「運命に対する怒り」を肯定する人間がいますよ!!
だから辛かった方、今辛い方、大いに自分の境遇に怒ってください。
あるいは涙枯れるまで悲しんだっていいんです。
無理して大人になって、間違っても「しかたがなかった」なんて諦めた顔でわっらわないでください。
「しかたがない」「しょうがない」。
これらの言葉はもっと肯定的に・前向きに使われるべきで、
間違ってもまだ傷ついている人間のためにある言葉ではありません。
辛くて許せないなら、怒ってください。泣いてください。
それが人間だと、デプレ子は思います。
そしてそのしょーもない境遇にたいして、毎日「ただ生きること」で抵抗する、それもまた人間の立派なあり方だと思います。
それでは今が辛い皆様、大いに怒り・悲しみ、そして運命を全力で否定しましょう。
と、壮大なことを語ってみるニートのデプレ子ちゃんでした笑
また機会があればお会いしましょう