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★←没作品テクスト-2
あたしは細い路地をぬけて駅へと続くはずの大通りにでた。
無意識に小走りをしていたようだ。
呼吸がやや乱れている事に気づく。
呼吸を整えながら大通りを見渡す。
人はおろか、車も走ってはいない。
誰もいない。
一直線の、だだっ広い通り道。
この大通りは果たして、駅に続いているのだろうか。
相変わらず辺りは暗い。
信号機が煌煌と青い色を示している。
誰も渡らないというのに。
人も車も渡らなければ信号機はどうなるのだろう。
誰も渡らないというのに、信号機は点滅を開始する。
チカチカ。
辺りは暗い、誰もいない、点滅する信号機。
信号機が点滅する音さえ聞こえそうな程、静かだ。
滑稽な光景。誰もいないというのに。
そこまで考えてあたしは思う。全ては相手がいてこそなのか、と。
青信号の点滅のリズムとあたしの呼吸のリズムが重なる。
チカチカ
トクトク
チカチカ
トクトク
いつまでも滑稽な信号機を眺めているわけにもいかないので、
あたしは駅があるであろう方角に向かって歩くことにした。
かつかつかつ。
こつこつこつ。
相変わらず、ヒールの音はあたしを急かす。
かつかつかつ。
こつこつこつ。
かつかつかつ。
こつこつこつ。
お願いだから、あたしを慌てさせないで。
かつかつかつ。
こつこつこつ…
いい加減、足が痛くなってくる。ヒールで走ったからだ。
あたしは次の信号の前で歩くのを止め、右片足立ちをする。
ひょいと左足を尻まで上げて後ろ手に摩りながら
靴擦れなどが出来ていないかを確かめる。
あたしは腰を後ろにくびらせて踵を摩っているから、
両頬に髪がかかる。
その男の存在に気づいたのは、
髪を掻き揚げた際に視界に影法師が入ってきたからだ。
信号機の下に佇んでいた。その男は。
あたしは俯いていた顔をゆっくり上げて、その男を目で確認する。
ゆっくりと。
突然の人の気配に動揺しているのをけとられぬように。
中肉で上背がある。
こざっぱりとしたジャケット姿。
整ってはいるが、まったく表情がない顔。
瞳はさながら鳥類のよう。
男の半身は闇に溶けかかっている。
男はまるで、
あたしが男を観察し終わるのを見計らったように口をひらく。
「私が家まで送ろう。」
闇に溶けかかっていた男の半身が街灯の光で全貌を現した。
男があたしに近づいてきたためだ。
あたしはとっさの恐怖で足がうごかない。
男の目が鳥のようで怖い。
男の目は今生を見てはいない。すぐに解った。
この男はまずい。本能的にそう思う。
踵をかえして走って逃げようかと逡巡しているうちに、
男は低音の声で言葉を続けながら、
さらにあたしに近づいてくる。
「警戒心が足りない。こんなに辺りが暗いというのに、一人あるきとは。」
速い。
あっと言う間にあたしの眼前に佇む。
「警戒心が足りない?」
あたしはそれでも怯えていることを
精一杯の演技で誤摩化しながら、
呆れたように返答を吐く。
「どこの誰とも知れない男に送ってもらう程、
能天気な女はいないでしょう。馬鹿なの?あなた。」
男は間髪入れずに答える。
「私がどこの誰かということは、もう、知っているはずだが」
やはり、表情がないままだ。
青信号機が点滅する。
チカチカ。
男もあたしも信号を渡らない。
青信号の点滅のリズムとあたしの呼吸のリズムが重なる。
チカチカ
ドクドク
チカチカ
ドクドク
信号機がついに赤になった。
「なにを…」
そう言いかけたあたしの言葉は男の低音にかき消された。
「私は昨晩、南の島からやってきた。私を欲しがっていただろう。」
先ほどの細い路地で出会った女の話と、
その話の内容の絶望的な希望的な感覚が蘇り、
あたしは叫び出しそうになる。
男は抑揚の無い声で、続ける。
「そう怯えるな、慌てるな。私はあなたのものだ。危害は加えない。
慌てなくてもいいのだと、あなたが、あなたに言って聞かせただろう。先ほど。」
そう。
怯える必要はない。慌てる必要はない。
あたしは両手で顔を覆い、なんとか冷静になろうと努力した。
あたしは震える声を絞り出して男に詰問する。
「あんたはなにしにあたしの前に現れたわけ?」
男は相変わらず抑揚の無い調子で答える。
「それも知っているはずだが?」
ああ、頭が痛い。
頭ががんがんと痛む。
「ああ、時が来たらって言われたの…まだその時じゃないの。たぶん。」
「だが、あなたが私を呼んだ。」
禅問答のようなやり取りに苛立ちを憶え、
あたしは痛む頭を掌で覆い、
双眸をつむりながら男に聞く。
「今…いったい何時なの?時計がないの。時間がわからないの。」
「時間?時間とは?私にはそれは無い。時計がないと何か困るのか。」
信号機がまた点滅を始めた。
チカチカ
ドクドク
チカチカ
ドクドク
信号機が点滅する音さえ聞こえそうな程、静かだ。
滑稽な光景。あたしとこの男しかいないというのに。
ふと、空を仰ぎ見れば、闇に薄雲が流れていた。
「路地を歩く」一部抜粋
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