美白について皆さんがいろいろとリアクションくださって楽しいかったので(みなさんのご意見いただけて有意義でした飛び出すハート)、肌トーンについて私個人が思うことを書かせてください目がハート

 

 

 

 

前提として、サラマ個人は、どなたがどういう動機で白肌を目指そうと褐色肌を目指そうともいいじゃない、と思っています。

この地球に生きる誰にとっても「自分の感性で良いと思う状態を追求していく権利」を備えています。

 

なにかをヨシとするその感性がたとえメディアに構築されたものであろうとも、文化規範に根差そうとも、白色肌/褐色肌でいることで自分がハッピィなのであれば、それは他人がとやかく言う筋合いないって思っています指差し

 

ちなみに私は、ヨーロッパナイズされていて褐色肌をヨシとしているわけではありません。

若い頃、自分が陽に当たらなくなって地の肌色が露わになった時に、なーんかイケてないというか、自分がワクワクするような装いとフィットしないなと気づいたからです。

サラマの場合は、生まれ持った肌色が、日本の古典に出てくるような〈透き通るような白い肌〉の質ではなかったんですよね。

私の肌は日光で少し色づくとなかなかに自分の好きな感じになるし、陽に当たらない状態の自分の肌よりも自分の好みの装いと馴染みやすく、おそらくキャラにも合っているのでしょう、周りからも「焼けてる方が似合うね」と言われるので、結果として「ある程度健康的に焼けていたい」のです。

 

生まれて90年だか100年だかを、買い替えることなくメンテして乗り続けないといけない〈身体〉というマシン。

そのマシンの色として、今のデザインにはこの色が似合ってるなあ、ってな感じです目がハート

杖をつく頃には違う色が似合ってるかもしれませんね知らんぷり

 

かといって、じゃあ冬も頑張って日焼けするかというとそういうこともなく。

「自然体である」「身を置く環境に調和する」ことがサラマの心地ヨシと思う装いのキーワードでして。

私たちは生き物ですし、動物が季節によって毛を生え変わらせるように、陽当たりの良い季節には褐色の肌トーンになって、陽当たりの良くない季節には白っぽいトーンになって、という感じで、四季と連動して移り変わる自分に身をゆだねて淀みなく歳を重ねていけばいいんじゃないかなって思うのです飛び出すハート

 

ちなみに、ヨーロッパにおける「小麦色の肌、ヨシ」って概念だって、本気で取り合うほどのものじゃないと思っているんですよねひらめき

 

前回も書いたように、かつて褐色肌が経済力の象徴だったってだけで、そんなんインターネットが出てくる前の話じゃないですか。

インターネットがある今日、肌の色から推し量らんでも、どこに勤めてたらどんだけの経済状況の家庭かってことぐらい、推し量れるわ、って感じしません真顔

 

マーク・ザッカーバーグは色白いと思うけどさ、ザッカーバーグがバカンスに行けないとは誰も思わんしさ。

 

日本においての美白の歴史は、おそらく多くの有色人種国家と同様、「色が白い」ことが、陽に当たりませんよ=労働者階級ではありませんよ=裕福ですよ、という経済状況を示すサインとして機能していたことが窺えます。

 

結局、今現在ヨーロッパでヨシとされる肌色も、アジアでヨシとされる肌色も、むかーしむかしは手持ちゼニ量の証明という文脈で判断される要素だったわけですよね。

 

そこにマーケティングがつけ込んで、ヨーロッパでは褐色肌を、アジアでは白肌をあれやこれやと盛り立てていった。

金持ちに財布を開かせるタイプのビジネスは経済効果が高くなるので、…まあ、企業はどこも「稼ぎポイント」とリキ入れますよね知らんぷり

 

今日に至ってはそれがゼニの象徴だったというかつての意味合いは薄れ「誕生日は祝うもの」「プロポーズには膝をつくもの」「パートナーのことはほめそやすもの」みたいな感じでオートマに走っている慣習なのかな、って気もします指差し

 

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