映画好きピーポーがすなる映画感想なるものをサラマも書いてみむとて書くなり。

 

デンマークに戻ってまいりました。

寒いよ不安

 

ちょっと間が空きましたが、ゴッドランドの感想を書き記しておきたいと思います指差し

 

「解釈が難しい映画だった」という声をちらほら読みますし、心理描写があまり描かれていないので「確かに難解かもしれない」と思ったりもします。そんなふうにかーなーり解釈が分かれるこの映画について、似たような感想を抱く方がいらっしゃったら、お友達になれるかもしれない目がハートと思うので書いてみたい私なのでした。

 

皆さん、映画お好きでしょうか。

近年は観ないですが私は若い頃は好きでしたし、感想を読んで「え、この人とサラマ感性が似てるぅ」だとか「こういうふうに考えたことなかった!なになにこの人、会ってみたい」だとか一方的に思い馳せるタイプです指差し

 

 

あらすじ

 

若きデンマーク人の牧師ルーカスが植民地アイスランドへ布教の旅に出る。任務は辺境の村に教会を建てること。しかしアイスランドの浜辺から馬に乗り陸路ではるか遠い目的地をめざす旅は想像を絶する厳しさだった。デンマーク嫌いでアイスランド人の年老いたガイドラグナルとは対立し、さらに予期せぬアクシデントに見舞われたルーカスはやがて狂気の淵に落ちていく。瀕死の状態で村にたどり着くが… (公式サイトより引用)

 

 

まず思い浮かんだこと

 

リンチですよね、リンチ。いわゆる私的制裁。

サラマはこの映画のある重要な局面でリンチの思想がカギを握ったと理解しました。

リンチは(所属するコミュニティにおいて大多数が正義とみなす価値観のもとで執行されるという性格上)集団で行われることが多いものの、代表した誰かが単独で手を下すことだってあるわけです。私的制裁という行為で重要なのは(私的制裁を私的制裁たらしめるというべきか) 「法に代わって」 だとか「法的手続きを経ず」という部分だと思うんですよね。

“あの展開”が、行為者の私的感情から生じたと理解するか、行為者にコミュニティの代弁者としての自負があったとするかの解釈が分かれるところだと思いました。私はウェイトは後者に置かれていたと理解しています。行為者は制裁の対象者が、将来、現状うまくいっている幸せなコミュニティの秩序を乱すと判断したのでしょう。

「こうしないと解決しない」という思い込み、他の選択肢について想い巡らせることないある種の潔さは、人権だとか表現の権利だとかいう現代において尊重されるべき価値観がまだ薄かった時代を舞台にした映画だから許された気がします。

現代を舞台にしたストーリーならばあの展開は陳腐になるかツッコミが入るかしそう。


多くの方が<圧倒的没入感>を評価していますが、そこは私も同感でして、2時間半という長さながらもほとんど気が逸れることなく「その世界に難なくスルリと入り込めた」つまり、自分と登場人物の心理描写にさほどの距離感を感じずに見ていられたんですよね。

この映画で扱っている<価値観の衝突>は意外と時代を越えても起こる普遍的な摩擦の類です。価値観の衝突がものすごく微妙に自然に、それこそ見る人によっては「あ、今誤解が生じたな」と気づかずスルーしてしまえるほどのさり気なさで描かれていて、それは19世紀の北欧でなくとも、異文化に移住したり留学したりという経験がある人間なら誰しもが「分かる、分かるぅ」と自分と重ね合わせることができるありふれた種のものだったんです。

そういうふうに物語を「あるあるな光景」、自分ごととして捉えながら観ていたところにリンチの要素が入ったので「ああ、そういえばこれは19世紀の話だものな」と我に返ったいうか、私の気持ちはすぅっとスクリーンからこちら側に引き戻されました。

引き戻されたことによって物語を他人事として扱えるだけの距離感がスッと生じ、「これは昔話」と捉え直せたというか、ありがたいことに、結果、暗いままの気分でエンディングを迎えずにすんだように思います。

自分の心理と重ね合わせたまんま終わられたら、私には重くてちとしんどかったかもしれなかった真顔

 

 

牧師のキャラ

 

主人公の牧師は世の8割程度の人が「ハナにつく」であろうキャラです。

さて、全体を通じてハナにつく彼の言動が何に根ざしているのかをどう捉えるべきか。

 

①聖職者という立場の人間だからそういう感じの人なのか、

 

②アイスランド人に対してのデンマーク人だからそういう感じの人なのか、

 

③もともとの性格がそういう感じの人なのか、

 

によって刺さり具合が違うと思いました。


日本人の感想を読んでいると、彼の態度はアイスランド人を見下しているデンマーク人だからだと捉えた方が多い印象でしたが、私はあれは彼の生得的なキャラに拠ると解釈しました。

 

だって牧師はもともとは通訳のアイスランド人男に対しては心を開いていたわけですよ。アイスランドに住むカールだってデンマーク人だけどアイスランド人たちと協調して暮らしているわけです。

デンマーク人がアイスランド人をあからさまに見下していた描写をこの映画内で拾い上げることはできませんでした。


私が思うに、当時のデンマーク人からアイスランド人への差別意識というのは、あるとしても、アメリカにおけるアフリカ系差別のように意図して構築された制度的なものじゃなかったと思うんです。

もっとこう、ローマ人たちが他の民族を蛮族と呼んだように、文明的であることを高尚であるとした場合に非文明的であることを低俗と置くような〈文化化の度合い〉で測るものであったと推測します。

 

牧師の態度の端々に己が他人よりも秀でているという意識が伺えますが、この態度にはデンマーク人であることも聖職者であることとも直接関係はないと思いました。なんていうかもともと彼が権威主義的なところがあるというか、ブランド思考というか、聖職者である自分像を拠り所にしてしまう思考を備えていた人として描かれていると私は捉えました。

現代においても一部の傾向を持つ人たちが「目覚めている」というフレーズを好んで使ったりします。人が「目覚めている」という言葉をわざわざ口から発する時、そこにはかなりの確率で目覚めている自分たちと対比に位置する「目覚めていない人たち」を強調する意図があるわけです。

牧師は己をいわゆる「目覚めている」系、アイスランド人を「目覚めていない」系として扱っていくのですが、視聴者の多くは私も含めて他人に対して「あなたまだ目覚めてませんね」なんて物申せるほどに自信満々ではないので、牧師の言動には終始ある種の居心地の悪さを感じる。はず。


牧師という設定はこの青年の理想と現実の距離感を浮き彫るための小道具であったように感じました。

「自分はこうである(理想像)と信じて疑わない滑稽な人物」あるいは「現実を的確に掴めていない若者」を描き出すツールとして最適だったと思います。

 

登場するアイスランド人勢は「儀式や形式よりも大切なものがあることを知っている」大人として描かれ、牧師に対して、お前、本質を見落としているぞ、と陰に陽にリマインドします。そしておそらく牧師も時折はそんな自分に気づくわけですが、状況的にキャパってるせいか、もともと度量が小さいせいか、本来の自分の身の丈を受け入れる余裕がありません。


見せ場のひとつに案内役の男が己の罪の告白をする部分がありますが、あの独白するシーンは、彼の告白に見せかけて、独白後半部分に、暗に、牧師の行為を連想させるような言い方をしつつ「お前は俺だ、俺はお前だ」というメッセージを送って挑発したというように私は捉えました。

 

事故とはいえ通訳を死なせたかもしれないという罪悪感はかなり早い段階から牧師の心を病んでいったとサラマは解釈しています。

事故が起こった時に彼は瞬時に自分の聖職者としての資質に疑ったはずですが、その罪悪感にフタをしたまま力技で与えられた立場の任務を遂行していきます。

役者さんの、内面に闇を抱えた人間が表面上うまく振る舞えている気になっている時のチグハグ感というか、不健康さみたいなものを醸し出す演技がすごい上手い。

 

結局この映画は筋だけ抜けば実はそんなに深くないというか「むかーしむかーし、あるところに…」で始まってスッキリとオチつけてまとまるおとぎ話系ストーリーだな、と思います。


どういうふうにまとめられるかというと、

「人間の若者なる生物は、ある年齢で理想とする自分と現実の自分のギャップを把握してすり合わせながら感じ良くオッサンオバサンに成長していくものだけれど、その、ややしんどいトランジションがうまくいかなかった時には悲惨だよ」という。

 

映像美

 

と、ここまで長く書けるほどに色々想像を掻き立てる映画だったんですが、でもぶっちゃけ、監督は単にアイスランドの景色を撮りたかっただけじゃね?とも思いましたww

物語は実はどうでも良かったんでない?と。

映像偏重型の映画だったという感想です。だって、繰り返すけど、長回し多様しまくりの2時間半ですもん。

 

この画↓↓もめちゃくちゃいいですよね目がハート

聖職者のローブに、カメラ背負って、神経質そうな表情。この1枚の立ち姿の背後に物語が透けて見える。地平線、カメラの上に丸められた布、すべてが右下がりなのも、素人の目線感を表していてヨシ。

 

 公式サイトより

 

どの程度の人にこの映画が刺さるか分からないのですが、評価はわりといいですよね。

ていうか、まあ、大きい賞いくつも取ってますしね。

単館系苦手でなければ観てみてくださいなひらめき