週末はコペンハーゲン市内で日本の桜まつりがあり、我々も行ってまいりました指差し



コペンハーゲンには日本のアンデルセングループ(㈱タカキベーカリー)が経営しているパン屋さんがあるのですが(本場ヨーロッパにありながら普段から盛況ですごいなと思います)、
お祭り会場となった公園にある200本のソメイヨシノはアンデルセングループが日本から輸入して植樹したらしいですよあんぐり
イベント会場では餅つきや和太鼓、けん玉などの日本に関わる催しものがあり、出店も多かったです。
いつもながらデンマークにおける日本という国の存在感に驚かされるのですが、今回もたくさんのデンマーク人がお花見を楽しんでおりましたキラキラ

私たちは開始と同時に赴き、アンデルセン(㈱タカキベーカリー)でパンを爆買い。
あ、爆買いといってもメロンパン4つ、アンパン3つ、焼きそばパン2つですけれどね。
なーに、10個も買わずに7,000円くらいですよ笑い泣き
相変わらずの物価だわ…

さて本題ですパー
ふだん上の子の送り迎えと下の子のお相手で一日が終わってしまい基本的に家族としか顔を合わせない日々を過ごしている私が、
自分のなかにネガティブな感情がわいた時にどう処理しながら暮しているかと言いますと、とりあえずは「嚥下する」「飲み込む」というかたちで対応することにしております。

子供にも夫にもネガティブな感情を説明しません。

子供相手に愚痴るわけにもいきませんし、
夫は基本的には〈自分の力で居場所を獲得した人間〉に多いタイプで共感するとか寄り添うとかいう姿勢を欠いた男なので、いつからか悩みだの心情だのを打ち明けることを厭うようになってしまったサラマなのでした真顔

二児の母親として、いつもなにかに追われ、いつも次になにをやるか考えながらセカセカ動く日常のなかで、
疲れが溜まったり、嫌だなと思うことがあったり、イライラしたことがあっても、
いったん歩を止めてその感情を吟味して整理する余裕がありません。
これは、おそらく世の中のお母様方の大半がそうなのではないかと思いますが、時間に追われるので、レジ打ちのバーコードスキャンで商品を流すように、自分の気持ちを流しでとりあえず仕分けして次のタスクに向かいます。

そうやって無視して無視してやり過ごしてきた不満というのは、自然消失するところも多分にあるものの溜まっていく一定量というのも確実にあり、
数ヶ月に一回夫に対して大爆発するというのが、結婚して以降の私のループなのですが、最近も自分のなかの導火線に火がつきそうな気配を感じながら過ごしておりました。

が、しかし。
こういうイベントでお久しぶりの方にお会いしてお話したりすると、
その方が陽オーラを放っている場合は特に、
言葉を交わすだけで、笑顔を向けてもらえるだけで、
心のうちに抱えている暗い沼からすっと引き上げられて現実が「そう悪くない」という事実に目を向けることができるので不思議です。
昨日の桜まつりもまさにそういうタイミングで開催され、初対面の方含めて少しだけいろんな人と会話を交わすことで救われました。

目の前にある現実というのは、自分次第でいかようにも色付けできる塗り絵だと考えている私です。
人生自体は、単に、そこに生起するイベントの連続であって、それ以上でもそれ以下でもないはず。
そういった連続するイベントに、勝手に、物語をつけたり、意味や価値を見出そうとしたりするのが私たち人間という生き物の愛すべき習性なわけですが、
どれほど客観的に物事を見定めようと努めても、人間である以上、私たちは目の前に起こるイベントを単なる事象として色付けせずに情報処理することはできず、そこには確実に自分の解釈がのってきます。

私なんかは、自分の感情を誰かに話す場合、つまり例えば言葉という道具を使って作品に仕上げて他人にメッセージを伝達する場合ですが、
そこそこ主観をそぎ落とした抑えの語りの作風になるにも関わらず、
もとから他人様に見せる予定なく取り掛かり、ひとりで黙々と感情をこねくり回した作品などはけっこうおどろおどろしいものがあったりして、他人様に見せるにはギョッとする仕上がりだったりするんですよね泣き笑い

本来、自分を取り巻く環境や色々な要素は、そこまで悪いものではないのです。
たんに仕事をやめたことでアイデンティティクライシスに陥っているだけなのです。
目に見える数値で測られない世界で自己肯定できなくなっちゃってるだけなのです。
なのですが、抱えた不満を一人でこねたり、練り上げたり、膨らませたり一人遊びしていると、予測や妄想と混じり、けっこう、独りよがりの、現実離れした展開になっていくわけですアセアセ

打ち水程度でいい真顔
ほんとうに、ひしゃくひとすくい分でいいから他人の言葉という冷水をかぶらせてもらえるとスッと冷静になれて、
「この世界の誰しもが100%思い通りなんて生きてているわけではない」ことや、「誰しもがそれなりにしんどいことを抱えながら思い思いのやり方でストレスコーピングしながら懸命に生きている」という至極当然の事実に気づけるのですが、
一人で独走を始めると、毎回、勝手に周りを見ずに同じ方向に走っていってしまい滝汗
誰しも抱えているものがあるという前提条件を忘れそうになる私です。

自分の器を過信してはいけないですね。
私の場合、
処理容量大きくないのですから、
心の澱は一人で抱えず白日の下に晒し、
パリッと乾燥させて、
パパッと掃いて捨てるのが良ろしかろう、と、改めて感じた桜まつりでした。

メロンパンなんて久しぶり過ぎる目がハート