夜ノ森地区にあるリフレ富岡。避難場所に指定されていたようなので、震災直後は大勢がここに避難しただろう。しかし避難区域が5キロ圏内・10キロ圏内と徐々に拡大していくうちに再避難を強いられ、以来9年間、そのままにされている。

 

大熊町に入る。震災遺構の一つ、「人にやさしい大熊町」「安全・安心まちづくり」の看板はまだあった。

道中Uさんとも話していたが、植物の巻き返しが半端ない。アスファルトとコンクリートの街並みを、植物や木々が破壊し始めている。特に、時期的なものもあるかもしれないが、藤がすごい。一見可憐な紫の花が、一軒家を飲み込む大きさまで成長しているのはどこか恐怖を感じる。Uさんが「ナウシカみたいな町」と言っていたのが印象的だった。

 

大野駅。もちろん周辺は帰還困難区域の為、誰一人住んでいない。たまに撮り鉄っぽい人とすれ違うくらい。

 

周辺の家屋は9年前のあの日から時間が止まっている。

 

浜通りを南北に貫く国道6号線はバイク・自転車禁止なのだが、帰還困難区域の真っただ中のここでは、電車から降りれば徒歩で駅舎に向かうことになるけど…いいのかな?そもそも帰還困難区域に入っていいの?でも常磐線開通したから駅も使えるようにしなきゃ…いやそもそも開通して良かったのか?帰還困難区域なのに?という禅問答が頭の中で繰り返される。

 

大熊町の大川原地区は復興拠点としていち早く避難指示が解除され、役場や住宅地やショッピング施設が集約されている。

何もない荒れ地から、突然近代的なコンパクトシティが顔を出すので、「まるで西部劇みたい」とUさん。

 

新しい大熊町役場は驚くほど立派だった。

 

役場の裏手には、明らかに核シェルターやろ…って雰囲気の防災棟も併設。

 

福島第一原発から3キロ地点。小さくて見えにくいが、排気塔が何本かと、白い建物の横に汚染水タンクが少しだけ見えている。ちなみに手前は中間貯蔵施設予定地らしい。この中間貯蔵施設の土地についても、自宅が予定地内に入ってまとまった資金を手に入れた住民とそうでない住民の間で軋轢があったりして、大変だった。つくづく、日本の復興政策は被災者を「線引き」したがる。

 

かつて「原子力輸送」の看板が貼られていたんだけど、老朽化で剥がれ落ちていた。別に原発関連の運送をしていたわけではなく、単に「これからは原子力の時代だ!」と思って社名にしたそう。テレビのドキュメンタリーでやってた。

 

2014年当時も文字はほとんど見えなくなっていた。

 

 

双葉町まで来ると、手つかずの被災家屋が数多く残っている。窓ガラスが割られ、盗みの被害にあっているものも多い。この工場は出入り口の前にバリケードを築いて、侵入を阻もうとしている。

 

東電の独身寮。当時、東電学園高校から高卒で東電に入社することが町のエリートコースだったという。とはいえ、大卒で東電に入った社員とは給料に結構な差があったとか。Uさんはこの近所の被災家屋の片づけに入ったこともあるそうだが、仲間の一人が給料明細を見つけて開いてみると、びっくりする額のボーナスが書かれてて、「公務員かな?」と思ったら東電の下請け企業だったそうだ。

 

中はおそらく震災当時のままだが、自販機が割られていたりと泥棒が入った形跡はある。当時の慌ただしい様子が伝わってくる。

これは被災者からよく聞いた話だが、原発事故の情報は東電社員に真っ先に伝えられていて、比較的早く避難できたようだ。それを疎ましく思う住民もいれば、肩身の狭い思いで苦しむ東電関係者もいる。でもみんな被災者である。

 

双葉駅。ここももちろん帰還困難区域内…なのだが、双葉町は他の町と違って帰還困難区域にバリケードを張っていないので自由に行き来できる。ここも蛍光灯が煌々と灯っているのに無人で、なんかSFみたいと話してみたら、Uさんは「SFの方がもっと設定ちゃんとしている。強力な警察機構が立ち入りを徹底的に取り締まったりして。こんなの安い3流映画」とのこと。確かに設定はガバガバだ。

 

この駐輪場なんかも、奥の駐車場は綺麗に整備されたのに、手前の自転車は9年間放置されたままになっている。かつてはこれだけ人がいたんだなあ。

 

「原子力 明るい未来のエネルギー」というアーケードがかつてあったのだが、今は撤去されている。撤去に反対する運動を展開していたのが、この標語を考えた本人だった。

 

かつてのアーケード。当時は立ち入り禁止のバリケードが手前に張られていた。

 

垂れ幕はこの通り色あせてしまっている。今はどっかの施設に保管されていて、今度できる原発事故の資料館で展示するかどうか議論の最中だそう。どこに議論の余地があるのか分からないが、絶対に展示してほしい。

 

つづく