百済ツアーは 扶余の後 公州へと行きます。。。が、


扶余も・・・まだまだ去りがたい。

※これから行かれる方は是非お立ち寄りをお薦めします。私もまた

 ふたたびと扶余に行きたいと思っています。


百済、扶余、と言えば “百済船”を模した観光船に乗って<黄布帆掛け船>白馬江 ペンマガンを渡り・・・扶蘇山 プソサン を見ながら・・・百済滅亡の時に3千人もの官女達が身投げしたという落花岩 ナッファアムを仰ぎ・・・1400年前の百済を感じたかったです。


 扶余という地名は、百済王の姓であり、種族の名前でもあるそうで、日本にある 百瀬さんとか他20ほどの姓は百済から来た人であるとガイドさんが言ってました。そのガイドさん情報も、「私の先祖ルーツは百済にある。」と言って訪韓された日本の大学教授から教えてもらった。とのことでした。


 第26代王聖王のとき扶余に都を遷し(遷都)泗沘城を建設。

都城で区分すると

漢城ハンソン時代 /ソウル~475年

熊津ウンジン時代/公州市475~538年

泗沘サビ時代/扶余郡 538年~660年 

で、百済の最後の都が扶余の地でした。


そしてスベクヒャンの彼?武寧王の息子、聖王が538年に日本に仏教を伝えた。と多くの歴史書にありますね~目


この他にも、ドラマで有名になった階伯の墓と像が建立された場所。

扶余から南西に20分車で 論山ノンサンです。ここがっ百済が新羅に大敗し、滅亡のキッカケとなった黄山伐ファンサンボル という戦場跡があります。

最近はドラマ効果で?公園として整備され、そこに階伯将軍の墓と銅像があるので・・・見たいかも。


ということで、この扶余郡 市ではないんですね 、「扶蘇山城」、「落花岩」、「皐蘭寺」、「白馬江」、「国立扶余博物館」、「ソドンヨテーマパーク」もあった!

で・・・  ・・・ もう~ 1日では回れない~!!



という~扶余~を後にして 到着しました公州市にある 百済の古城

「公山城」









ここが百済の熊津ウンジン城です。

そう、475年にここ(公州)に遷しました。

ですがこの石垣に変えたのは朝鮮王朝時代の14、15代の王様が改築したそうです。

ガイドさんに「えっ?15代王ですか?光海君ですよね。」って言うと、ガイドさんが「すご~い!何代王って、すぐ誰か わかるの?」って・・・


わたくし・・・「えーーまあーー朝鮮王朝時代の王の流れと名前なら27代王まで知っています。というか憶えています。」と言ったら


ガイドさん、抱きしめてきて~(゚_゚i) 

「えら~い!韓国人でも知らない人、たくさんいるのに」って言われた(・・。)ゞ

 どうでもいいことだけど、なんか頭に入っていったのね~。韓国語もそうなっていかないのかな~



ちょっと・・・・長々になりまして

『武寧王陵』 までに辿りつかない。。。。(゚_゚i) ふう~あせる



 この続きは、また続編で・・・すいませんあせるあせる


追伸・・・扶余のお祭りで【扶余薯童蓮の花祭り】7月 薯童公園 を書きましたが、その他に【百済文化祭】9~10月グドゥレ公園一帯 というのがありました。


また出た聖王26代王が538年に熊津から扶余泗沘城へ遷都する課程を住民や大学生など2000人以上が参加して再現するイベント=「泗沘遷都行列」・・・だそうです。見たいな~目ラブラブ

今も継続されているのでしょうか?

 

一応・・・扶余観光案内 (041)1330、830、2330  です。


黄色い花 黄色い花 黄色い花
 


日本と韓国の文化交流を遡れば紀元前からとのことですが、特に三国時代。

百済、新羅、高句麗の乱世時代。

新羅がカヤを征服した562年、国を追われて日本に渡ったというし、660年の百済滅亡のときも日本に逃れたという。

百済王族の一部は日本の朝廷に仕えていた方もいて・・・そして新羅が三国統一を果たしたときは、高句麗の人も日本に渡ってきていますから。。。

 もっともっと知りたくなる・・・訪問したくなる歴史ですねラブラブ