ドラマ「明成王后」を途中にして、<古宮&博物館巡り>に出かけたのですが、距離的にも近いこともあり、高宗の父:興宣大院君フンソンテウォングン の私邸を訪れることができました。


ドラマ視聴中ということもあり、大変興味深く鑑賞できました。

 ※仁寺洞で冷たいスゥイーツを食べて・・・歩いて3分くらいのところ?ですか!?

  

 ドラマの興宣大院君テウォングンの家とは全然違ってました~(当ったり前!ですが~、ドラマのウニョングンは女人天下の尹元衡とナンジョンと同じ「屋敷」を使って撮影していましたよね!?


 1993年から4年間復元工事を終えて、1996年から大公開 復元ーというと全てが新しいのかなと思いましたが、日本統治時代-朝鮮戦争を経ても、老安堂、母屋である二老堂、老楽堂などはとても保存状態が良かったので補修工事された建物でした。


韓国時代劇・中

門の入り口~(ロングヘアーの女性が掲示版見てますね、そこが入り口です。)


 敷地 2、148坪の中に建物6棟、朝鮮王朝末期に、ここで政治活動が行われていたのね目

 

 かなり広いし、建物もすごいわーと思ってましたが、なんと!!昔はもっと広くて大きいお屋敷だったそうで・・・


当時の雲峴宮の雄大さは王室と肩を並べるほどで、屋敷を取り囲む塀の長さは数里にもなったとか。

現在の日本文化院、徳成女子大、校洞小学校一帯全てが雲峴宮の敷地だったそうです。(でかくて地図が必要ですね。王の住む宮殿となんら変わらないではないですか~)

 

韓国時代劇・中

『老安堂 ノアンタン 』

 

 興宣大院君が、息を引き取った場所がこの老安堂の大きな部屋の後ろ側にある続き部屋だったそうです。

 

 「老安堂」と書かれた篇額は「老人を安らかにする」という意味で、息子が王になったお陰でよい家に安楽に老年を過ごせ、自ら十分だという意味で、興宣大院君は秋史・金正喜(チュサ・キムジョンヒ)の筆跡を組み合わせて作ったもの。


(・・・だそうで、意味は知らないで見ていましたが、とても不思議な字体だな~と見入っておりました。そんな意味があったんですね ('-^*)/)

 


  また、この老安堂を建てるのに使用した木材はすべて白頭山ペットウサン(現在は北朝鮮にある山-朝鮮半島の最高峰)で鴨緑江のほとりを眺めていた木を使用。


また、老安堂は典型的な韓国式の瓦葺で、軒先に角材を長く伸ばして日よけをかけた手法は今日ここにしか残っていない特徴です。 <建築関係の方々、棟梁とか宮大工さんは、興味があるのではないでしょうか?>

 

 

 

 二老堂は、雲峴宮のサランチェ(主人の居間)で1864年(高宗1年)老楽堂とともに完成した。

 

興宣大院君が日常生活を送っていたところで、高宗の即位後、主な改革政策が話し合われた歴史的な場所。



韓国時代劇・中

二老堂(イロダン)

 

 外部の男性が簡単に入ってこられないように「ロの字」形に建てられており、真ん中に中庭があります。

老樂堂はおもに母屋として使われていましたが、女性のみが暮らす徹底した男子禁制の空間。また、二老堂の女主人は実質上、雲峴宮全体の最高責任者とされていました。


 1866年、老楽堂で高宗と明成王后の嘉礼が行われた後、老楽堂を母屋として使うことが困難になった。

そのため、新たなアンチェ(母屋)として二老堂を建てることになり、1869年(高宗6年)に完成-


 入ってすぐ右側に長い建物があります。それは雲峴宮の経費と管理を担当している人達が住んでいたところ。

 

 先に、王宮のように広い-とありましたが、高宗が即位すると興宣大院君の権力が増すと、大院君の警護などのため、宮廷から、雲峴宮担当の官吏や警護スタッフが派遣され、居住人数が多かった。


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老安堂:興宣大院君が国政を行ったところ

老楽堂:アンチェ(母屋)

二老堂:ピョルダン(離れ)

その規模と格式から、士大夫の家というより、宮廷の内殿に近い。


 興宣大院君が亡くなった後、長男の李載冕イ・ジェミョンを経て、李埈鎔イ・ジュニョンに相続された。

<このお三方、息子と孫も明成王后に登場してましたね!>

 朝鮮戦争以降、相当部分が売りに出されてその規模が縮小した。    雲峴宮ガイドブック及びソウルナビより

 


足音が聞こえてきそうな気がします。耳