日常何も変わらず過ぎていく日々

そんな中「日本の一番長い日」と言われた

昭和20年8月15日


67年前になり、その時を知る人も少なくなっています。

先日放送した辻本くん出演のドキュメンタリー「巨大戦艦大和」も

決して、戦争の中の美談を描いた訳でなく、

決して、優しい夫や妻の生活を描いた訳でもなく

「戦争」と言う抗えない時代に飲み込まれていた人々のなかにある

日常を描きたかったんだと思います。

普通の人々が、普通の生活を送ることが突然ぶち切られる

そんな理不尽な「戦争」


「戦争の記憶」

今般、中国や韓国が領土問題でまたしても物騒になっております。

日本人は忘れても、相手国は忘れないということもあるのです。

体験した人がいなくなっても、教育と言う語りつがれで

戦争の記憶は、受け継がれていきます。

そして、反日感情が大きくなっていきます。


広島・長崎の記憶すら、今の日本人は覚えているのでしょうか?

亡くなった人たちの為にも風化させてはいけない記憶です。


1945年7月

17歳の少年は、学徒動員で働いていた工場が、艦砲射撃を受けたことを知ります。

そこには2歳年上の兄が寮生活していました。

汽車で水戸駅まで行くと、その先は不通。

線路を歩いて勝田駅まで向かいます。

工場への途中、大きな穴がそちこちに開いており建物の被害も目撃します。

兄の姿を探すと「〇〇お前の兄貴やられたぞ」知らせてくれた人がありました。

水戸の病院に運ばれたようだと聞き、また徒歩で引き返します。


汽車が動いてないので、線路を歩き急いでいるところ

頭上にアメリカ軍の飛行機がやってきました。

何人もで、土手の上の線路を歩いていたので目立ったのでしょう。

飛行機は正面から機銃掃射を撃ってきました。

線路を挟んで前から来る飛行機の攻撃をかわすため、反対側の土手に身を伏せます。

飛行機が頭上を通り過ぎ、旋回して反対側から攻撃してくるため、

必死で土手を駆け上がり線路をまたいで反対の土手に身を伏せます。

飛行機が通過するとまた土手を駆け上がり、線路をまたいで反対の土手に伏せる。

兄のカバンを頭にのせて、機銃掃射から身を守っているのは、

生きた心地がしなかったでしょう。

何度も何度も土手を駆け上がり、線路の向こうとこちらに逃げ回っていました。

ただ繰り返し、飛行機が去っていくのを待つしかありませんでした。


その後、兄は病院に運ばれるも亡くなっていたことが分かり、数日後工場で対面しました。

まだ、19歳の若さ。幼くして両親が亡くなり、祖父母の家に暮らしていた兄弟4人の長男でした。

責任感が強く、自分は兄弟の面倒をみるから逃げなくてはと言っていたそうです。


逃げ回っていた17歳の少年は、私の父です。

その後、父は大変な苦労をします。


そして、1か月も経たないうちに終戦を迎えます。

あとひと月戦争が早く終わっていたら・・・

そう思います。


私の「戦争の記憶」は、この父の記憶です。

お兄さんのカバンで頭をかばい、線路の土手を駆け上がりながら逃げていた父を思うと、自分の記憶の中に残さなくては、そう強く思います。


17歳。今で言ったら、高校2年の夏のことでした。




15日の終戦記念日に記事にしようと思っていましたが、

電話騒動で、タイミングがズレテしまいました。

すみませ~んビックリマーク