お久しぶりです。
本当は一か月前に載せる予定だったのですが、写真を整理するのが面倒で…(オイ


5月、大徳寺の特別公開に合わせて京都に旅行に行って参りました!
特別公開していたのは総見院、黄梅院、興臨院です。
この3つの塔頭は毎年、春と秋に特別公開しており今回初めて行くことが出来ました。
また秋にも行ってみたいですねー。


取り合えずまずは黄梅院!
黄梅院は信長が父・信秀の菩提を弔うために建てた塔頭です。

これは黄梅院の庭園。
黄梅院には瓢箪型の池の形をした枯山水があり、とても美しかったです。


黄梅院を菩提寺とする武将の方々の碑。

お次は興臨院。
興臨院は能登畠山氏や前田家の菩提寺です。石川県民の私にとってはゆかりのある人物の菩提寺にあたるというわけですね。

興臨院は種類の違う紅葉がたくさんあったので、秋の特別公開ではさ色んな紅葉を楽しむことができるだろうなぁ~と思いました。

そして総見院。
総見院は言わずと知れた織田信長の菩提寺です。

写真は総見院の鐘楼。

総見院では織田信長の木像も特別公開されていました。残念ながら撮影禁止だったため目に焼き付けてきました。
さすが美形一族。細面で鼻筋が通っている印象を受けました。
しかし目は爛々を輝いているようにも見え、どこか冷酷な感じも…(苦笑


織田一族のお墓にも参りました。



京都駅からバスで大徳寺に行ったわけですが…
途中でとある停留所に降りたら佐々成政のお墓がある寺にも行けたので物凄く迷ってしまいましたw
知人と一緒だったため泣く泣く断念。
あまり興味なさそうに大徳寺を回っていたので断念して良かったかなぁ…と。
今度行くときは一人で回ろうと思います。
やはり趣味に付き合わせるのは悪いし、つまらなさそうにされるとこっちもつまらなくなってしまうので(苦笑

数週間前ですが、上司にドライブに誘われたのでちょっくら末森城跡に行って参りました。

末森城……。

石川県民は奥村永福が守り抜いた末森城を思い浮かべ、愛知県民は織田信勝の居城だった末森城を思い浮かべるんでしょうかね。

一度、SNSで知り合った人とその認識の違いから、すれ違いばかりの会話を繰り広げてしまったことがありますww


今回行ってきたのは勿論石川県は羽咋にある末森城です。

前田と佐々がまともにぶつかりあった合戦の跡地でもあります。


金沢方面からひたすら国道を走り抜けて行くと、右手側に末森城跡という看板が見えてきます。

おぉ!あの山が末森城のあった山かーと気を抜いていると左手側に小さく駐車場の案内板が立っています。

車を止めて軽く登山♪



大河ドラマさまさまです、本当にありがとうございました。

大河効果と、もともと里山ってこともあり、道はそれなりに整備させていました。それなりにね。

もっと考古学的な調査を進めれば遺跡とか結構残っていそうだなぁ~とは思うんですけどね。

如何せん、よっぽどの物好きじゃないと訪れないような史跡のためにそんな調査をするお金を回すはずもなく…。

なんとなく勿体ない気はしますが、仕方ないですよね。



私が行った時は、前日まで雨が降っていたということもあり、道が少々ぬかるんでいました。

ぬかるんでいましたが、「確か末森城の戦いも雨が降って土がぬかるんでいたんだよな…。ってことは当時の状態で登城できているってわけだな!これはラッキー!」と、ポジティブシンキングでなんとか登りました。

尚、上司はへとへとになっていました。



天守閣跡から見た景色。

利家や永福もこの景色を、あの海岸線を見たのかな~と思うと、ワクワクしてきちゃいますね。

整備されていませんでしたが、利家が攻め上ってきた搦め手口の道もちょっとだけ見ることが出来ました。

しかし案内板には末森城の戦いの顛末と、二の丸や三の丸等がどこにあったか書かれてあるだけでした。

成政が陣取った坪井山がどの位置にあるのか知りたかったのになぁ…(・ω・`)





そして先日は同僚と丸岡城へ花見に♪



幸い天気だったので良い感じで桜と丸岡城の写真を撮ることができました(*´∇`*)

日本最古の現存天守ってだけでロマンがある。

まぁ、日本最古の城現存天守は犬山城だという話もありますが、ぶっちゃけどっちでも良いww(オイ


犬山にしろ丸岡にしろ、どちらも素敵なお城であることに違いはありませんからね。

犬山城の天守閣から見る木曽川の景色はとても綺麗だったなぁ…。また行きたい。




次はどこのお城、もしくは城跡に行こうかな。

富山城址も整備されたはずだからそろそろ行きたいな。しかし七尾城を今度は下から登山したいしなぁ…。

悩む…。

お久しぶりです。

北陸新幹線が開業し、金沢は賑わっているようです。

駅の人口が平日でも開業前の土日の混雑時に匹敵する多さだと、友人が言っていました。

開業前に復元された玉泉院丸庭園と橋爪門二の門に行っておいて良かったと心底思いましたよ…。





さて。

ここ1か月、お昼休みに『松姫はゆく』という小説を読んでおりました。

それまでは上司から借りた『影武者 徳川家康』を読んでいました。昼休みの短い休憩時間に読んでいたので、全部読み終わるまでに結構な時間がかかりました(苦笑


そんでもって『松姫はゆく』の感想をば。

まず、この本を見つけたときに即行買うことを決めました。松姫は好きな人物なんですよね。

なんと言っても信忠との逸話が切なくて、でもお互いに一途に想い合っていたのが素敵だな~と思っていたので。


そして読んで衝撃を受けました。

信忠との甘く切ないラブロマンスなんて無かった……!(泣

松姫は兄や親族を殺した信忠を恨み憎しむようになるのです。

それでも信忠は只管一途に松姫を求め続けるんですよね。


あと勝頼の描かれ方もちょっと残念でしたかね。

バカ殿とまではいかないですが、当主の器を持っているとはあまり思えない描かれ方。

それよりも異母弟の仁科盛信のほうがよっぽど当主に相応しい男として描かれていました。

その点は仁科兄ちゃんが大好きな私は大歓喜ですけどもw


やはりヒロインの同腹の兄であり、武田で唯一抵抗らしい抵抗を見せた武将であったということもあって、なかなかカッコ良く描かれていました。

それだけに彼の最期は号泣もんでしたよ。


家臣が「人間五十年、これで思い残すことはなくなったわ」と言うのを聞いて、仁科兄ちゃんは「わしは思い残すことばかりじゃ」と呟くのがなんとも切なく、この台詞があったからこそ余計に仁科兄ちゃんの死が悲しくなったんですよね(・ω・`)


その後、高遠城に入った信忠の描写も良かったです。

仁科兄ちゃんの見事な最期や、女・子どもまで必死に戦い、自害して果てている姿を見た信忠は織田に寝返り、道案内まで買って出た武将が許せなくなった。


だからせめて城を枕に見事に討死した高遠城兵の魂が報われるように、寝返ったり降伏してきた者を悉く斬り捨てるように命じた。


このあたりの信忠の心情が、良くも悪くも真っ直ぐな人物であることを窺わせて良いなぁ~と思いました。

ただこの行動が松姫に憎まれる所以でもあるので、なんとも切ないんですけどね。



『松姫はゆく』のヒロインは松姫であることに間違いはないですが、主人公は架空の人物の御寮人衆の一人です。

信忠と松姫の甘く切ないラブロマンスが好きな私としては、ひたすら残念な思いを抱きながら読み進めていたのですが…

終わりかたがとてもすっきりとしていて、読後感はとても良かったです。

文章自体も凄く読みやすかったですしね。


なによりやっぱり仁科盛信と松姫の兄弟愛が良い!!

妹の仕合わせをひたすら願う兄と、兄をひたすら心配する妹。

松姫の回想の大半は仁科兄ちゃんとの思い出でしたしね、うん。仁科兄妹好きの私にはとてもありがたい一冊となりました。



しかし、この小説ではひたすら信忠と対立していた仁科兄ちゃんですが…

色々と調べてみると、結構素晴らしい逸話が二人にはあるんだなぁ…と思いました。

世が世なら、義兄弟として良き関係を築けていたのかもしれないと思うと、なんとも残念。


もしかしたら信忠が本能寺の変で逃げずに戦い続けたのは、高遠城の戦いのことがあったからなのかな…と思わずにはいられない。


2月5日付の地元紙の一面に気になる記事があったので紹介します。


金沢、小矢部両市は4日までに、戦国時代末期に加賀の前田利家と越中の佐々成政が戦った「加越国境城跡群及び道」を国史跡に指定するよう、石川、富山両県教委を通じて文化庁に意見具申した。史跡は切山城跡、松根城跡、古道「小原越」で構成し、城が道を戦時封鎖したことを遺構で確認できた国内初の事例となる。

(中略)

調査からは、加賀と越中を結ぶ小原越を通じ、切山城に前田勢、松根城に佐々勢が陣取り、対峙していた様子も分かった。それぞれの城の堀によって、小原越が切断されていることも明らかになった。織田信長や豊臣秀吉の家臣が築造した織豊系城郭が、独自に成立していく過程が把握できる希少な事例と判明した。

(後略)

2月5日北國新聞



10月頃に指定される見通しだそうです。

中略と後略の文章はどんな方法で調査をしただとか、どんな理由で申請しただとか、そんな感じの内容です(←



城郭史とかはぶっちゃけ専門外なのでよく分かりませんが…。考古学はどっちかというと苦手なので…。

でも当時の遺構が残っているのはロマンが溢れるというかなんというか。

思いを馳せることができて良いなぁーと思います。


遺構が残っていなくても絵図があれば、それだけで思いを馳せることはできますけどねw



石川県立美術館の企画展「高山右近とその時代」を観て来ました。




今年は右近没後400年ということで企画された展示会だそうです。

去年から新聞記事でもチラホラと右近関連のものがありましたし…。

いつか県内にある右近のお墓に行きたいなー…。



展示内容は凄く良かったです。

伝高山右近所用と書かれたものばかりではありましたが、もし本当に所用していたら…と思いを馳せることは出来ました。

南蛮兜に短刀、チョッキに笠…。

他にも蒲生氏郷所用の茶杓や利休の手紙なども展示されていました。


しかし一番テンションが上がったのは前田家三代の肖像画ですねw

まさか利家、利長、利常の肖像画まで展示されているとは思っていなかったので吃驚しました。


まぁ、右近との関係を考えたらあってもおかしくはないんですけどね。



利休が氏郷に宛てた手紙には、右近が都を出立し、金沢に向かったことを「先ず先ず仕合わせ目出度き下向」と評してあったりします。

右近は利家に石高はいくらでも良いから教会を建てることを条件に出していたわけですからね。

利家はそれを了承したわけですし、息子の利長はキリシタンにマジでなりたかったほどの人物。

信仰を続ける右近にとっては良い環境だったのかもしれない。




しかし展示品を見ながら、祖国を離れマニラに追放された時の右近はどのような思いを抱いていたのか。

それがちょっと気になりました。

己が生まれ育った国から離れなければならなくなるのはとても辛いだろうなぁ…と。

右近のその頃の心境にちょっと興味を持ったので機会があれば調べてみたいな。