とある記事のコメント欄にある中野剛志氏と適菜収氏の対談、並びに藤井聡氏と中野剛志氏の現在の関係性についての議論があったのを見かけた。
本来であれば、そのコメント欄に記述するべきことなのかもしれないが、余りにその記事の内容から逸脱しているのと、長文になってしまいコチラに記事として書くことを決め、現在に至るわけだが、しかしながらこのコロナ渦における考えの相違や立場の違いを理解する一助になるのではないかと考えている。

 

「議論の勝敗だけにこだわる「知識人ごっこ」の末路【中野剛志×適菜収】」

 

 


さて、まずは中野氏と適菜収氏の対談だが、「じゃあ自分たちはどうするべきと考えているか」を置いてけぼりにしてただただ個人批判に徹している、というのが印象だ。
対し、藤井聡氏は「今の政府では財政政策などしないだろう。であればせめて自粛は止めさせるべき」と主張している(それは「今も」だ)
果たして、今必要な言論をしているのはどちらなのか。

また、色々と突っ込みどころがあったが個人的に取り上げる点としては「藤井氏は、MMTを唱えていたにも関わらず、昨年7月、「財政政策が行われるとは思わない」と断じ、」という部分だが、コチラにリンクが貼ってあり、そのページを読んでみると「今のあの安倍内閣(当時)が、財政政策を徹底的にやるとは思えないからです。だから少なくとも今のこの状況で、いくら自粛+財政政策を叫んだところで、成功する見込みはほとんど無いでしょう」と語っている。
結果、御存知の通りしなかったし、今も絶賛拒絶中である
しかも、財政政策を訴え続けて空振りし続けていることは中野氏が一番良くわかっている事で(だからといってしない、という選択は駄目だが)、藤井氏も別にしていない訳ではない。

最近の言論としては「財政政策はもっとするべきですけど、無意味な自粛(実効再生産数に基づき)は精神的にも辛い状態が続き、それで自殺者も出ているのだから止めるべき」と主張している
また、コレ自体は個人的に思うことで根拠も何もないしただの思い込みであることを十分に留意していただいた上で、藤井氏の記事にある通り、中野氏は自粛状態が続いても苦しくない人の一人だと思うのだ。

なんか・・・図星突かれたから怒っている、と勘ぐられても仕方がないのではないか、と思ってしまう。

そして、最も気になる点としては、中野氏と適菜収氏との対談、その冒頭部分で「理性だけで判断するのは危険」といった主旨の発言があった。
確かにその通りだと思う。正直、コロナというウィルスがどのように変異するか未知数でありそれ自体恐怖の対象ではある。だが、別にそれはコロナに限った話ではなくウィルスそのものの話だ。
では、以前からそのような主張をされていたのか。自粛をするべきと声高に訴えてきたのか。
また、理性的に語るだけではいけない、そう仰るのであれば自動車、電車、飛行機、これらも批判し取り締まるべきなのではないだろうか。現実に多くの方々が亡くなられているし、ご遺族の方々はその辛さを背負っておられます。
では何故それらを理性だけで判断せず感情に基づいて判断して「いない」のか。思うに、それは「線引をしているから」

どこかで線引しなければ際限がなくなる。これは普通に暮らしていれば誰もが陥るジレンマの一つだと思う。だからこそ、インフルエンザもノロウィルスも麻疹もおたふく風邪も、通常の風邪も、自動車も飛行機も、苦しんでいる方々や亡くなられている方々が大勢いらっしゃるにも関わらず目を背け見て見ぬ振りを続けてきたのではないだろうか。

それだけではない、それらは日常的に「使う」から。なくなったら自分たちが「困る」から。だから批判しない。批判して万が一規制されたら「自分たちが困るから」。

でも、自粛をしても所得が下がるわけではないので外側から好きに叫べる。それで自殺者が出ても自己責任。「コロナで亡くなる方々が出るよりマシでしょ?」と悪魔もドン引きの発言で周囲を黙らせる。

「感情的に」言わせてもらうなら、「だったら財政政策を実現させてみろよ」と言いたい。でなければ自粛は即刻止めるべきだ。この自粛批判は、命を助けるために命を見捨てている、それが現実だと私は思う。

 

とにもかくにも、今中野氏が行うべきは個人批判ではなく、財政政策へのプロセスを明確に提示することだ。それが出来ないのに「自粛批判を批判する」のは真っ当な言論活動とは言えないのではないだろうか。

個人的に藤井氏にも思うところはあるが、それら全てを飲み込み、今は救える命を救うために現実に即して考えるべきだと私は思う。

そして、全てが終わった時に改めてやればいいのだ。それもまた一つの言論なのだから。