お盆休みに入り、子供達と過ごす時間が長くなると痛感させられるのが、
私はダメなお母さんだということ。
子供を家族の一員として歓迎し、存在そのものを愛し、温かく見守る姿勢が私には欠けている。
その代わりあるのは、家族の一員としてすべき事ができない、またすべきでは無い事を改めないのは悪であると軽蔑する冷たい目。
まだ、5歳と3歳の子に向ける私の態度の残酷さに震える。
自己嫌悪で消えたくなる。
私が徹底的にそう育てられた様に、私も子供を育てようとすると、そうなってしまう。
北風になってしまう。
私だって太陽の様に子供達に接したい。
愛があってこそ叱られていると伝わる様に接したい。
でも、できない。
いけない事をした時に、なぜいけないか教える時。
約束を破った時に、それを守ることの大事さを教える時。
太陽のお母さんなら何て声を掛けるんだろう。
太陽のお母さんならどうやって許すのだろう。
太陽のお母さんならどこまでを許しどこからを許さないのだろう。
太陽のお母さんならどんな眼差しを向けるのだろう。
虐待の連鎖は決して肉体的な暴力だけの話では無い。
幸いなことに、こういう苦しみに見舞われずに育った人には決して理解できないだろう。
それは、あなたの母が太陽だったからだ。
そういう温かさに包まれた環境で育った人は簡単にこう言う。
「自分がされて嫌だったなら、自分の子にはしなければいい。」と。
違う。
この問題は、”3年生にいびられた2年生が自制して自分達がやられた嫌な事を1年生にはすまいとする”のとは訳が違う。
そんな簡単な問題ではないのだ。
自分が生まれてから育てられたやり方は、間違いなく手本となってしまうのだ。
自分が親からいけないと教えられた事を、子供にも「いけない!」と教えているだけ。
そこには、親への仕返しを自分の子供にしているとか、スカッとしたいからしているとか、そんな感情など微塵もない。
おそらく皆、ただただ一生懸命、自分が知りうる感覚・経験・倫理・道徳を基に行動しているだけ。
北風のお母さんの「OUT」のボーダーは、太陽のお母さんのそれより厳しく、またそこに赦しはなく私は必ず断罪されて来た。
母の法律で私という人間は育て上げられてしまった。
それでも母のやり方を否定し、あんな母にはなるまいと日々自分に問い、一生懸命ブレーキを掛けて判断し、必死で子育てしているだけ。
決して自分がそう育てられたから、子供に対して同じに接しても構わないなど思ったりしていない。
多くのお母さんがそうである様に、将来ちゃんと生きていける人に育って欲しいと願って接しているだけなのに。
なのに、悲しいことに、私自身が初めから毒である。
私が発する一言が、眼差しが、判断が、
一滴、また一滴と子供達を蝕んでいく。
そして、また同じ苦しみを孕んだ、生きづらさに翻弄されれる人を生み出してしまうのだろうか。
子供達が大人になってしまうまでの時間は、砂時計の砂が落ちるが如く刻々と減っているのに、
私はいつになったら子供達を蝕む存在から抜け出せるのだろうか。
私が努力して変わるのを待っていてくれる程人生は長くないのなら、いっその事居なくなってしまった方が子供達の為なのではないか。
この苦しみを世の中に増やしてしまっただけなら、私は子供など持たず、鎖を自分で終わらせるべきだったのかも知れない。
私は太陽の温もりを知らず、太陽に憧れる、哀れで愚かな母です。